元看護師が紅茶専門店を開いた理由。病と向き合ってわかった「私が本当にやりたかったこと」
焼きたてのワッフルの甘い香りに、紅茶のやさしい香りが重なっていく。
店内をやさしく満たす午後の光の中で、三重県鈴鹿市にある紅茶専門店〈Stella Tea Time〉の店主・小坂美香さんは、白いワンピース姿で静かに紅茶を淹れていた。
その穏やかな表情からは、かつて大きな病に直面し、自らの人生と向き合うことになった日々を想像するのは難しいかもしれない。
病を経て彼女が見つけたのは、好きなことに素直になるという生き方だった。
それは、「紅茶が好き」という気持ちと向き合うこと。
時計の針が少しだけ静かに進んでいるような、そんな午後。
紅茶の香りに包まれながら、これまでの歩みと、これからのことを聞かせてもらった。

第1章:人生最悪の日、絶望の底で自分に問いかけた
2019年。
当時、看護師として働きながら、1歳9か月の息子を育てていた美香さん。
ある日、保育園に送り届けた帰り道、ふと足を止めた。
「やっぱり、なんかおかしいな」
体の奥に、かすかな違和感があった。
けれど、日々の忙しさの中でそれを見過ごしてしまっていた。
「出産後に不正出血がときどきあったんです。
でも、出産ってホルモンも崩れるし、疲れかなって。
毎日が忙しかったので、自分のことはいつも後回しで……」
看護師として、そして一人の女性として、自分の体のサインに気づけなかった。
受診が遅れた。
診断は「子宮頸がん」。
しかも、10万人に1人とも言われる“小細胞がん”だった。
医師に告げられた瞬間、視界がゆがんだ。
「自分はとんでもない病気にかかってしまった、って。
本当に人生の中で一番落ち込みました」
怖くて、翌日から仕事にも行けなくなった。
「どうしよう……。
死にたくないって、強く思ったんです」
治療はすぐに始まった。
手術の後、半年にわたる抗がん剤治療が続いた。
髪はその間にすべて抜け、体力も気力も、削られていった。
入院中のある日。
ベッドの上でぽつんと天井を見上げながら、美香さんは考えていた。
「なんでこんなに“生きたい”って思うんだろう」
そんな問いを、自分自身に何度も投げかけていた。
そのうちに、心の奥からある想いが浮かび上がってきた。
「やりたいことを、まだ何もできてない。そう気づいたんです」
たしかに、看護師として働いてきたことに、誇りはあった。
人の命に寄り添い、社会に貢献できる仕事だとも思っていた。
けれど同時に、こんな気持ちもずっとあった。
「病院という組織の中では、“自分らしさ”を出すのが難しかったんです。
だからこそ、もっと自分の思いや好きなことを活かせるような、そんな働き方がしたいって思うようになりました。
私も、自分の好きなことを形にして、もっと誰かの役に立ちたいなって」
「“好きなこと”を仕事にして、悔いなく生きたい」
一度きりの人生。いつ終わるかもわからない時間のなかで、彼女は自分の“好き”は何だったかを、問い直していた──。
第2章:記憶の中の紅茶に導かれて
がんの治療を終えた頃、仕事には復帰していたが、ちょうどコロナ禍ということもあり、これからのことをゆっくりと見つめ直す日々が続いていた。
そんなある日、自宅でふと淹れた紅茶を口にした瞬間だった。
「あ、そういえば――私、昔から紅茶が好きだったな」
ふわっと立ちのぼる香りに包まれながら、心の奥に眠っていた想いが、やわらかく目を覚ました。
その小さな気づきが、美香さんの心に明かりを灯した。
「もし、好きなことを仕事にできるなら、自分の思いを込められるような働き方がしたい。
紅茶で誰かの時間に寄り添えたら、きっと素敵だろうな」
ゆっくりと過ごす時間のなかで、そんな思いが少しずつ、輪郭を持ちはじめた。
美香さんには「紅茶」にまつわる、忘れられない思い出があった。
それは21歳の頃、京都で訪れた紅茶専門店でのことだ。
「〈ほそつじいへいティーハウス〉っていうお店で、厚焼きのパンケーキと白桃アールグレイを頼んだんです」
「静かな音楽が流れるなか、甘い香りに包まれて、ゆっくりとした時間が流れていて──。
紅茶の味もお店の雰囲気も、すべてがまるで別世界みたいでした。
“あ、私、こういう場所で誰かの時間をつくる仕事がしたい”って、思ったんです」
そのときの気持ちは、日々の忙しさに紛れても、心の奥にずっと消えずに残っていたのだ。
8年後、病をきっかけに人生を見つめ直すなかで、その記憶が鮮やかによみがえった。
「このままでは、やりたいことをやらずに終わってしまうかもしれない」
そんな不安が、背中を押した。
第3章:“好き”を仕事に変えるまで
「紅茶のお店をやりたい。
でも、本当にできるのかな……」
迷いながらも、
「紅茶を通して人と関わりたい」
「誰かの時間に安らぎを添えたい」
という想いは日を追うごとに強くなっていった。
紅茶を通して人に喜んでもらえる場所を作るには、まず何をすればいいのかを模索した。
2021年。
美香さんは鈴鹿商工会議所が主催する「創業塾」に通い始めた。
日曜午前の限られた時間、看護師と母業の合間を縫いながら、起業の基礎を一つずつ学んでいった。
「少しずつ、“できるかもしれない”って気持ちになっていったんです」
創業塾を卒業後、開業までには約3年をかけた。
テナント探し、紅茶の仕入れ先との交渉、紅茶コーディネーターの資格取得。
その間も、看護師の仕事は続けていた。
週に数回、市内のクリニックで働きながら、空いた時間をすべて準備に注ぎ込んだ。
「今できることを全部やる。それだけでした。
先のことを考えると不安になるから、とにかく一歩ずつ」
そして2022年。
美香さんは病院を退職した。
長年働き続けた白衣を静かに脱ぎ、いよいよ自分の夢に向き合うことを決めたのだった。

こうして、夢を形にするための準備が始まった。
「正直、家族にも心配されました。
でも、“今やらなきゃ”って思ったんです。
元気なうちに、自分の人生を選び直したかった。
やらなかった後悔だけは、したくありませんでした」
美香さんを突き動かしたのは、確かに不安だったのかもしれない。
いつまで元気でいられるか分からない不安。
やりたいことをやらずに終わってしまうかもしれない焦り。
「自分の人生をどう生きるのか」
——そう真剣に問い直した日々で、
美香さんはその不安を、揺るがぬ意思で行動へとつなげていった。
こうして2024年1月、
鈴鹿に席数9席の小さな紅茶専門店〈Stella Tea Time〉がオープンした。
“星”を意味するステラ。
その名前には「光輝く日々を送って欲しい」という、静かな願いが込められていた。
第4章:紅茶と、これから届けたいこと
開店からまもなく、〈Stella Tea Time〉は、紅茶と“自分のための時間”を大切にしたい人たちが集う場所になった。
お子さん連れのママも、ひとりでふらりと訪れる人も。
ここには、日々の中に「自分らしさ」を取り戻せる時間が流れている。
「この1年半、本当にたくさんの方に来ていただきました。
最初は不安ばかりでしたけど……“やってよかった”って、今は心から思っています」
美香さん自身の“紅茶が好き”という想いから始まったこの店。
そして、あるきっかけが、この店の可能性を広げるヒントになった。
「開業前に創業塾で、日本で初めて紅茶を飲んだ人として知られる、大黒屋光太夫の話を聞いたんです。
鈴鹿の方だったと知って、本当に驚きました」
江戸時代、鈴鹿の白子(しろこ)から出航した光太夫は、嵐に遭ってロシアへ漂流。
異国の地で紅茶と出会い、約10年後に帰国を果たした。

この話を知ったことで、美香さんは、こう感じたという。
「紅茶を仕事にしたいという気持ちは、私の個人的な想いでしたが、
光太夫とつながることで、紅茶が鈴鹿市の歴史と結びついているんだ、って思えたんです」

お店のオープンから1年半。
現在、美香さんは、紅茶を通じて心地よい時間と豊かな日常を楽しむことを伝えるために、オンラインでの発信やイベントの開催に力を入れ始めている。
他にも子育て中のママたちに向けて、
「自分の好きなことを仕事にする」ための相談会やワークショップを開くなど、起業支援の活動も少しずつ広がっている。
「自分らしく生きたい。」
「自分の好きを、誰かと分かち合いたい。」
その思いを、少しずつかたちにしながら、
美香さんはまた新しい一歩を踏み出している。
一方で──
彼女の中で、ずっと重く心にのしかかっていた“数字”がある。
「5年」。
それは、がんの治療後、“再発リスクが一区切りつく”とされる月日だった。
「ずっと、“また再発するかもしれない”という不安を抱えていました。
でも、ようやくその5年が過ぎて……。
最近は、本当に心が軽くなりました。
前を向けるようになったというか、今はすごくポジティブな気持ちでいられます」
病気をきっかけに、自分の生き方を見つめ直した美香さん。
あらためて心に浮かんできたのは、
「紅茶が好き」という、揺るがない想いだった。
〈Stella Tea Time〉という小さな紅茶専門店には、
そんな“好き”を形にしながら、自分らしい人生を歩もうとした彼女の決意が詰まっている。
いま、美香さんは、自分の“好き”を形にしたこの店から、
紅茶を通して自分らしさを思い出せるような時間を届けたいと願っている。
店舗情報
Stella Tea Time
三重県鈴鹿市神戸8丁目28-1(地図)
営業日時;月火木土 11時30分〜18時、金18時〜night tea time
定休日;水・日
お店の情報は随時更新中
Instagram;https://www.instagram.com/stella.teatime?igsh=MWk3bGU4YWxndmJraw==