ホーム 04【知る】 飯南育ちの私は、山の子どもだ。これからも、どこにいても。

飯南育ちの私は、山の子どもだ。これからも、どこにいても。

40代に入ったいま、実家暮らしだったころの夏の日々を想う。

私は20代前半まで飯南にある実家から松阪の市街地へ約40分、車で通勤する毎日を送っていた。夕方に仕事が終わってもまだ暑く、帰りの車内のエアコンの目盛りはいつも最大。実家へ向かう国道166号線は信号も少なく、冷房を効かせて快調に車を走らせる。
しかし、大石不動院の前を通り過ぎる頃、冷房を止めて窓は全開に。国道沿いに流れる櫛田川からは、少し湿った重みのある冷たい空気が、車内に渦巻くように流れ込む。

飯南に入ると右手に牛のモニュメント、左手にアマゴなどのイラストが描いてある堤防が見える。ここの前を通ると「ただいま」という気分になり、気持ちが落ち着く。「今日も帰ってきたんだ」と、残り10分のドライブは好きな音楽と、どんどん冷たくなる空気を感じるひと時を楽しむ毎日だった。

そんな日々から約15年が経ち、今の私はまち暮らし。地元と比べれば物質的には「何でもある!」と思える場所に住んでいて、不自由さは感じない。

しかし、ふとした瞬間に地元の夏を思い出す。記憶の中で鮮やかに蘇るのはしっとりとした空気だったり、青い草の香りだったり。緑が輝く眩しい風景は、私の記憶のなかで強く主張する。光と影のコントラストが強い、夏の田舎の風景。

「ここには何もない」。子どものころはそう思いながら過ごしていた。しかし地元を離れて年を重ねるごとに、なぜか毎年、夏の記憶は鮮明になっていると感じる。その理由が知りたくて、いや、知るべきだと直感が反応し、そこには忘れてはいけない何かがあるような気がして、今回は地元で過ごした子ども時代を追いかけてみた。

 

太陽が1番元気な、7月の後半。
私が通った平屋建ての小学校(今は休校)

小学校低学年の私。夏休みが始まり、自分の誕生日もこの時期。1年で1番楽しく、私は笑い声が絶えない時期。午前中はだらだらと宿題。昼食後は幼なじみと小学校のプールへ。

すでに学校の方から賑やかな声と、カラーンと休憩の鐘の音が聞こえ、気持ちが勇む。友だちと水中で足をくぐり抜けるゲームをしたり、誰かがかじった跡があるビート板で遊んだりと、楽しい時間はあっという間。

それでもまだ遊び足りなくて、友だちと川へ泳ぎに行こうとはしゃぐ。竹藪の小径を抜け、沢蟹のいる小川を跨ぐ。到着した櫛田川にはもう、上級生が対岸の崖から飛び込んで遊んでいる。

プールに入ったままの水着で川の浅瀬に立ちすくむと、足元をイショコが「つー」と通り抜け、くすぐったさを感じる。
遊ぶ場所を変更するため少し歩くと、1週間前までは浅かった川底が、先日の雨の影響で急に深くなっていて、足を掬われて驚きながらもその状況をクリアするなど、不安定さもアドベンチャーのように楽しむ。上級生たちは3メートル程の崖から飛び込んで得意顔。私は勇敢な上級生になる事はできず、何年経っても1m程度のところからしか飛び込めなかった。
そんな感じで、太陽の陽射しがオレンジ色になるまで、川で全力で遊ぶ。

鮮やかな日々の記憶、陰影の強い景色は、私の記憶の手前に置いてあり、すぐに取り出せる場所に大切に保管されていたことに、今さら気がついた。人は楽しい記憶なら、何度でも思い出せるようにできている。

 

太陽と青空が入道雲の輪郭を際立たせる、8月の初旬。

小学校高学年の私。友だちがお盆休みに遠くへ帰省する事を羨ましく思い、近所に親戚が暮らす私の里帰りが町内で完結することに、物足りなさを感じていた。山の中であっても、茹だるような暑さが続く。ただ、おおよそ70年前からある我が家は、木造で風通しが良く、エアコン無しでもなんとか凌げる。

冷凍庫に保存されている鹿肉・猪肉

週末には「中庭で焼肉をするぞ」と、張り切る父の声。肉は味噌だれベースの若鶏が主役になるのが飯南のスタイル。サブのホルモンや、家族がそれぞれに好きな部位を屋外で楽しんだり、近所の猟師さんからいただいた鹿肉を焼いたり。
「ピーマンはうちで採れたやつやからな、うまいぞー!」といつもの如く、圧強めにすすめてくる父。あまり好きではない、丸ごとのピーマンや玉ねぎの輪切りも、香ばしく焼けた味噌ダレが夏の風味のごちそうへと少しだけ昇華させてくれる。

もうすぐお盆。ぽつぽつと集落や隣町の祭りの話が聞こえる。

夏休みの終わりがチラリとよぎるも、やはり祭りは特別で、すぐに目の前の楽しさに引き戻される。そんな微細な揺らぎが可愛らしい、子どもだったころの記憶が浮かんできた。

 

毎年特別な空気が漂う、お盆の時期。

祭りの賑やかさと、墓前に参るしめやかさ。感情の振り幅が大きいが、どちらの時間もミンミンゼミのうるささと、じっとりとした湿気がセットになっているお盆。母の実家は車で5分程と近く、中学生になった私にとっては通学路の途中にあるため、見慣れた場所から見慣れた場所への帰省となる。

そんな母の生家は、養鶏や農業を営んでいた。玄関にはサボテン、水槽には、数年前に祭りで掬った金魚が、想定以上に立派な姿に。家に入り、祖父の観ている高校野球の音を聞きながら、まずは仏前で手を合わせる。
大人たちの近況報告を片耳に麦茶をいただきつつ、腕の日焼けと白い部分の境目を無くしたいと、何となく気にするお年頃の私。

中学校へは自転車で通っていた。お盆休みが終わる数日後には、またアップダウンが激しい道を8キロもこいで、部活に勤しむ日々が待っていると思うと憂鬱な気持ちになっていた。そして、お盆を過ぎても太陽はきっとまだ元気なはず。なので、肌の境界線が今よりはっきりとしてしまう。親戚が集まる特別な空気感とは裏腹に、自らの明日を1番気にしてしまう、そんな自分勝手な思春期を思い出す。

暑さのなかにも、はっきりと秋の空気が感じられる、8月の下旬。

高校生になった私は、路線バスで松阪の市街地の高校へ約1時間半を掛けて通って、毎日部活に明け暮れる日々。久々に部活が休みだった日、用事を頼まれて近所を自転車で走る。日中は、まだまだじっとりと暑く、茶畑の小さな影にでさえ、隠れて涼を取りたくなる。
用事を済ませて家に帰ると、自分の部屋で寝転びながらパラパラとファッション雑誌をめくる。カラフルに煌めく紙面は、流行りを感じるための小さな窓を眺めているよう。

やりたい事や、漠然とした将来の展望など、もくもくと雑誌の煌びやかな世界に空想する私がいる場所は、目の前の殆どの部分が緑色。卒業後は、色鮮やかでいろいろなモノやコトが溢れる場所に身を置きたい!と願いながら、新学期に間に合うよう、スカート丈を直すためにミシンを踏む。そんな、ふつふつとした思いや淡い憧れを抱えながら過ごす、田舎者の高校生の日常。

稲藁の刈り取り直後のみずみずしさと、香ばしさが入り混じったような香りが、空気の中に濃く漂うと、私は秋の気配を感じる。

部活は休みもほとんど無く、疲れ切って家に帰ると、ひんやりとした畳の上でうだうだと過ごす。外からも、家の中からでさえ、うるさいぐらい響く、秋の虫の音が夏の終わりを感じさせる。

 

山の子であれ。

高校時代を終え、少しの期間だが、都会と呼ばれる場所や日本以外の場所にも住んでみた。そこでは、見たことのない色や形が溢れ、目に留まっては流れていくのを繰り返していった。でも、自分の中身といえば何も変わらず、内向的な山育ちの人間でしかなかった。

強いて変化があったといえば、失礼の無いようにと多少社交的に振る舞えるようになった事くらいだ。そしてわかったのは、自分の故郷は美しいという事。

ふわふわと飛び交う蛍を見つけ、兄弟で大はしゃぎした夕べ。幼なじみと道に寝転がって見てた流星群。趣味に夢中になりすぎて、徹夜した時に見た、朝霧の中の太陽。

ぜんぶ、故郷とともにあった私の記憶。
飾り気など何も無いものが、実は1番心に残っていたんだ。

私は山の子どもだ。
それは、ずっと続く性分。

この先、年を老いてもあり続けて欲しいと願う場所。
それが飯南の、谷の小さなふるさと、なのだろう。

少しだけ物分かりが良くなって、目尻のしわが増えた今でも蘇る、故郷の光を背に感じながら、明日からも飾り気の無い瞬間を、大切に記憶していこうと思う。

私はこの先も、山の子どものまま生きていく。

(おわり)

 

 


 

 

(おまけ)
私の田舎の日常風景

櫛田川にいる小さいヨシノボリのことを地元の年配の方は
「オカババ」と言い、地域で呼び名が変わり
「ギンシャ」「イショコ」「ジョンコ」などと
呼ぶらしい。集落によって呼び名が変わるのは
田舎らしい小さなトリビアみたいでなんだかおもしろい。

家で焼肉をするときは
近所の焼肉屋で肉とタレを調達する。

黒色の七輪が多い。

道の駅飯高で売っている「よもぎのだらやき」。
味はホットケーキみたいな感じで
よもぎが入っていなかったら
ほぼプレーン味のホットケーキ。
知らない人に伝える時の説明が難しい。

自宅で採れた野菜。
形がいい物や大きい物はご近所にお裾分けするので
不格好な野菜が自宅用になる。

鯉を飼う家庭が比較的多いように
感じるのは私だけか。
水は山の湧き水。

夏休みにプールが開放されて喜ぶ。

茶畑のすき間に隠れて遊ぶ。
背中でお茶の木をぐるんとまわる
ローリング茶畑をして怒られた。

小学生のときは秋葉山公園によく行った。

地元だけでなく
他の地区の夏祭りにも友だちと通った。

たまにご近所さんからオロナミンCをもらう。

餅まき専用の台がある。

一家に一台はある軽トラ。

岳さん(局ヶ岳)を見ると
今でも心が落ち着く。

 

記事:hiromi(飯南町出身)

 


 

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株式会社三ツ知製作所

地元雇用を推進しています。

弊社、株式会社三ツ知製作所がある飯南・飯高地域は、少子化や若者の都市部への流出により、過疎化が進んでいます。弊社が創業より大切にしてきた地元の方の採用が、将来的に厳しくなっていくと考えています。地域内の雇用は地元を元気にする基礎です。人口減少が進む時代のなか、今までの採用活動をいちから見直し、地元である飯南町・飯高町の魅力を発信することで少しでも興味を持っていただければと考え、持続的に地元の魅力の発信を行う一環として、前回に引き続き今回の記事を作成しました。

▼前回の記事
「ただいま〜私のまち」松阪市飯南・飯高地域のあの日に帰る旅

弊社は1971年に飯高町で創業し、現在は三ツ知グループとして国内10ヶ所に拠点を持ち、更には中国、アメリカ、タイにグループ会社を設立しています。創業から「冷間鍛造(れいかんたんぞう)」をコア技術とし、自動車関連部品や建築資材の製造を行っています。
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