SNSで見かけた一枚の写真から、思いがけない二日間が始まった。
四日市の観音寺と、翌日に訪ねた鈴鹿の加佐登神社(かさどじんじゃ)。それぞれの場所で、語り継がれてきた歴史や言い伝えを聞くことができた。
竜宮の門をくぐる
写真に写っていたのは、竜宮城のような形をしたお寺の山門だった。場所は、四日市市の六呂見(ろくろみ)にある観音寺。珍しい形の門に心ひかれ、足を運んでみることにした。
写真で見てはいたけれど、実物を前にすると驚いた。こういう形の山門はテレビや映画で見たことはあっても、実際に目にするのは初めてだった。門をくぐると、まるで竜宮城へ入っていくような気分になる。
境内で、この寺の50代目にあたるご住職に話を伺った。
まず穏やかな口ぶりで教えてくれたのは、竜宮型楼門と呼ばれる、この山門のいわれだ。
この世とあの世のあいだには関所があり、そこを通るのに必要なのが念仏なのだという。江戸時代の関通(かんつう)上人の遺徳をしのんで、その関所を竜宮の門のかたちにしたと伝わる。
竜宮城どころか、私はあの世への関所をくぐっていたらしい。
日本ではあまり見かけない門のかたちは、中国風の建築様式に由来するのだろう、とご住職は言う。
仏教は、インドから中国を通って日本へ伝わってきた。そう考えると、竜宮の門のほうが、むしろ伝わってきた仏教のもとの姿に近いのかもしれない、と思った。
「ろくろみ」という地名と、秘仏の観音さま
寺の由緒では、神亀四年(727)、小野の湊(みなと)に観音さまが現れ、のちに聖武天皇が寺を創建したと伝えられる。
「ちょうど来年が、お寺の開基1300年の年なんですよ」と、ご住職は教えてくれた。観音さまが現れた年から数えて、2027年が1300年目にあたる。
話は、この土地の昔のことにも及んだ。昔は、寺のあるこのあたりも海だったと、ご住職は土地の人たちから聞いてきたという。
六呂見という地名にも、二つの説がある。ろくろ職人の集団がいたからという説と、海が引いて「陸路(りくろ)が見えた」からという説だ。「僕はこっちのほうが好きなんですけどね」と、ご住職はほほえんだ。
本堂にも上げてもらった。その日はちょうど、寺ヨガが開かれていた。
中はきらびやかで、極楽浄土のようだった。
ご本尊は秘仏のため、ふだんは、その前に置かれた御前立(おまえだち)という像を拝む。その御前立の前まで、案内してもらった。ご本尊は、頭が八つ、足が四本の霊鳥に乗る観音さまで、四足八鳥観音(しそくはっちょうかんのん)と呼ばれる。
ご本尊と結ばれた五色の紐にも、そっと手を触れた。

作法よりも気持ち。ご住職が教えてくれた手を合わせる意味
お寺でのお参りの作法を、私はよく知らない。そう打ち明けると、ご住職は、「大丈夫ですよ」と言ってくれた。
仏さま、つまりご本尊の観音さまを敬い、その気持ちを捧げる。それが、お寺で手を合わせるということなのだという。
名前も顔も知らない遠いご先祖がいて、今の自分がいる。ご本尊は、そのご先祖みんなをひっくるめて代表してくれている。だから、ご本尊に手を合わせることは、ご先祖みんなに手を合わせることでもあるのだと、ご住職は話す。
そんなふうに考えたことはなかった。難しく構えなくていい。作法を知らなくても、まずは手を合わせてみればいいのだと思えた。
本堂の中で大きな菊の紋を目にした。山門の瓦には時代劇でおなじみの葵の紋もあった。
寺の沿革によれば、三人の天皇の勅願所となり、徳川家康からも朱印を寄せられたという。天皇家とも徳川家とも、深いつながりのあるお寺なのだ。
お寺の中に神社? 夢枕に立った八幡大菩薩
境内の一角の、八幡社に目が留まった。
その傍らの古い由緒書きに、こんな話が残っていた。
天正十九年(1591)、寺が焼けて、観音さまが仮のお堂に移されたときのこと。夜更けに白髪の老僧が、尊像のまわりをたびたび巡ったという。やがて老僧は寺の僧の夢に現れ、自分はこの寺を守る八幡だと告げた。
祀られているのは八幡大菩薩。参れば災いが除かれ、願いもかなうという。寺を守るための神さまなのだと、ご住職は話してくれた。
神さまでありながら「大菩薩」と呼ばれ、寺の観音さまを守ってきた。寺の境内案内では、この八幡社は、神さまと仏さまの信仰がひとつになった「神仏習合」の名残なのだという。
お寺の中で、神さまが観音さまを守っていたとは。
静寂に包まれた「加佐登神社」へ。木漏れ日の参道を歩く
観音寺の写真をSNSに載せると、神社やお寺が好きだという人からメッセージが届いた。ほかにおすすめの場所を尋ねると、好きな神社として挙げてくれたのが、鈴鹿の加佐登神社だった。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝承で知られる神社だ。実は私の家から近い場所にある。
名前もよく知っている。それなのに、境内に上がったことは一度もなかった。翌日、訪ねてみることにした。
鎮守の杜は、こんもりとした山のような場所だった。近くまで来ないと、参道は見えない。ふもとには駐車場があり、表参道はそこから上っていく。
なかなかの坂道だ。両側に石灯籠とのぼりが並ぶ。木々に覆われた参道は薄暗く、ところどころに木漏れ日が落ちる。いくつかの鳥居をくぐりながら一段ずつ上るうちに、すっかり息が上がった。
石段の参道を上るその時間が、まるで日本武尊の時代への道のりのようだった。
上りきると、パッと視界が開けた。頭上に空が広がる。薄暗い参道を抜けてきた目には、境内がひときわ明るく見えた。頬に当たる風が気持ちいい。
境内で神主さんに話を伺い、参道を上ってくるのがとても気持ちよかった、と伝えた。
話をするうちに、神主さんの口から、こんな言葉が出た。
「ここに入ると、あまり外の音がしないんですよね」
そういえば、と耳を澄ます。聞こえてくるのは、鳥のさえずりと、風に揺れる葉の音くらいだった。
上ってきた参道の石灯籠にも、いわれがあった。昭和のころまでは、参拝者が奉納した木の鳥居が、坂の下まで並んでいたのだそうだ。けれど、木の鳥居は十年ほどで朽ちてしまう。それで今は、石灯籠が並んでいるのだという。
夏の天王祭の夜には、その灯籠すべてに火が灯るとのことだ。一度見てみたいと思った。
日本武尊の伝説と、母校の名前
拝殿の前に立つ。ここに祀られているのは、日本武尊。ご神体は、尊の形見と伝わる笠と杖だ。
社の名前も、このご神体の笠から来ているという。地元の人たちは「かさどさん」と呼んで親しんできたのだと、神主さんはにこやかに話してくれた。
日本武尊といえば、勇ましい武将の姿が思い浮かぶ。ところがこの神社は、古くから病気平癒の信仰を集めてきた。若くして亡くなった尊にちなむもので、江戸時代にはその信仰が広まったという。日本武尊を祀る神社としては珍しいのだそうだ。
そのころは、お伊勢参りの行き帰りに立ち寄る人も多かったようだ。東海道の名所のひとつとして、浮世絵にも描かれるほどだったと、神主さんは話す。
日本武尊には、亡くなったあと白鳥になって都へ飛んでいったという伝説もある。
本殿のさらに奥上ったところには、白鳥塚(しらとりづか)と呼ばれる古墳がある。尊の終焉の地と伝わり、この社も、その白鳥塚の前に創始されたといわれる。
私も、そこまでの山道を歩いてみた。途中の木には、登山道のようにピンク色の目印が付いていた。
そして、この近くには、私が通った白鳥中学校がある。その名も、この白鳥の伝説から来ているのだと、神主さんは教えてくれた。
母校の名前に、そんな由来があったのだ。ちょっと誇らしい気分だ。
帰り際に名刺をもらうと、その名前に見覚えがあった。一瞬、あれ?と思った。中学校のころ言葉を交わしたことはなかったが、同級生に実家が神社の子がいるとは聞いていた。目の前の神主さんが、その人だった。
これには驚いた。ずっと話を聞かせてくれていたのが、中学校の同級生だったとは。
白鳥の伝説が母校の名前につながり、その母校が、今度は神主さんへとつながった。
家の近くに、こんな場所があった
何十年も暮らしてきた土地なのに、足を運んだことのない場所がある。
きっかけは、SNSで見かけた一枚の写真と、届いた一通のメッセージだった。
観音寺では、ご住職の話を聞くうちに、お寺がぐっと身近になった。加佐登神社では、石段の参道を上り、神主さんの話を聞くうちに、知識でしかなかった日本武尊の伝説が、自分の暮らす土地の話になった。
観音寺も加佐登神社も、機会があれば一度訪ねてみてほしい。
観音寺(浄土宗 補陀洛山勅願院 観音寺)
加佐登神社(かさどじんじゃ)
- 所在地:三重県鈴鹿市加佐登町2010番地
- 電話:059-378-0951
- 駐車場:3箇所あり。表参道の石段を上る場合はふもとの駐車場を利用。裏参道から拝殿近くまで車で行ける
Googleマップ - 公式サイト:加佐登神社公式サイト / Instagram
京都芸術大学(KAU)で映像を学びながら文章と写真でも表現活動をしています| webマガジンOTONAMIEでは人物に焦点をあてたインタビュー記事を執筆中
















