貴重な文化財としての二振の「村正」
桑名宗社(春日神社)は桑名神社・中臣神社の二つの神社からなり、それぞれに「村正」が奉納されています。
それぞれ、『春日大明神(中臣神社の旧称)』と『三﨑大明神(桑名神社の旧称)』の御神号が彫られている、県の有形文化財(工芸品)です。
二振の「村正」は、第二次世界大戦時に先々代の宮司が刀剣の保存と手入れが困難になることを見越して、宝刀村正の輝きを後世に守り伝えるために、サビ防止のため空気に触れないように刀身は黒い漆で包まれました。
そして終戦から74年を経た2019年、平成から令和に変わる令和元年10月22日に、「即位礼正殿の儀」が行われたことを記念して、「村正」ともう一つ奉納されている「正重」を1振ずつを漆を取って研ぐ修繕を行い、令和の御大典事業の一環として特別公開されました。
刀身に漆が塗られているため刀の状態を把握することが困難な中、『春日大明神』『三﨑大明神』の「村正」のうち、どちらを優先して研ぐべきかを有識者で検討がなされた際、『春日大明神』が優先されました。
以前に刀匠・上畠宗泰氏のご講演を拝聴した際、
【村正】漆の上から刀身をよく見て、錆が進んでいる方を研いだ。
【正重】一度も研がれていない「出来たままの刀」の方を残した。
とお伺いしました。
そのため、現在でも『三﨑大明神』はまだ漆が除去されていないままです。
美しい「村正」と「妖刀村正」その虚と実
二振のうち『春日大明神』と彫られる一振の村正は、研ぎ上げられて地刃が鮮明となりました。
戦後初めて本来の姿を現した宝刀村正は、歴史的資料価値のみならず、華やかで美しい刃文は美術工芸品としても価値が高く、村正の代表作とも云える傑作と評価されました。
村正には「徳川将軍家に災いをもたらす呪いの刀」だという、妖刀伝説が存在します。
- 徳川家康の祖父・松平清康が家臣の謀反で討ち取られた際
- 家康の父・松平広忠が討ち取られた際
- 家康の妻・筑山殿が殺害された際
- 家康の嫡男・松平信康が謀反を疑われ、死罪となり切腹した際
に使われたことや、家康本人もたびたび村正によって怪我をしたなど、家康の4世代にわたって村正に関わっています。
そのため徳川家康本人が直々に、村正の銘の付いた刀を持つことを禁じたや、「村正は徳川家に仇をなす妖刀だ」と言われるようになりました。
「妖刀伝説」は、幕末に倒幕派にとっては縁起物として扱われるようになり、西郷隆盛など幕府に敵対する立場にいる人たちは「村正」を集めたそうです。
また、倒幕派が村正に固執して奪い合うまでになったことで、「村正作」だと偽って銘を打った贋作が大量に出回ってしまいました。
ただ “出来すぎた” 「妖刀伝説」は、のちの創作だと言われています。
伊勢国(三重県)・桑名で作られていた「村正」は斬れ味が鋭く、そして安価だったため、伊勢湾を挟んで近い三河国(愛知県)によく流通していており、松平(徳川)家の家臣団に多く使われていたからではないでしょうか。
また、徳川家康公も「村正」を愛用していており、その刀が尾張徳川家に伝わっています。
さらには「村正」が奉納されている桑名宗社の境内には、家康公の孫「千姫」により「桑名東照宮」が境内に建てられ、市指定文化財の「木造 徳川家康坐像」が祀られております。
徳川家が忌み嫌う「妖刀」が奉納されている神社に、家康公を祀るはずもありません。
不破義人宮司は、
“ 奉納者である「村正」が丹精込めた技術の結晶を神様に奉納することは、自身の誇りであります。いつの時代であっても「村正」の気持ちを「妖刀」「徳川を祟る」という安易なフィクションで傷つけてはなりません。”
“ 研磨された『春日大明神』の村正をはじめて見たとき、その美しさに鳥肌が立ちました。村正自身がこの刀のために材料や技術、思い、全てにこだわったことを感じます。この愚直な刀を見ていただければ「妖刀」という言葉が間違いであることが感じられるはずです。”
眺憩楼(ちょうけいろう)~村正ミュージアム~
※2023年12月21日~2024年2月中旬まで、年末年始のため休館しています
桑名宗社境内には、村正を展示する「眺憩楼~村正ミュージアム~」があります。
この建物は明治時代の料亭「船津屋」を移築したもので、明治天皇をはじめ皇族の方々が宿泊されたことから各所に菊紋が使用されています。
この部屋より見る揖斐川と多度山の景色は素晴らしく、明治21年に有栖川宮熾仁親王殿下がお越しの際に、ご賞賛あらせられ御筆を採られて「眺憩楼」の名を賜りました。
昭和35年に春日神社に移築されましたが、一般公開されたことがなく、その歴史を知る方は殆どいませんでした。
令和2年2月に「宝刀村正写し奉納プロジェクト」としてクラウドファンディングが実施され、『春日大明神』の忠実な「写し」が作刀されました。
その「写し」を展示する施設として令和4年に改修され、「村正=桑名」を発信する場所に生まれ変わりました。
座して刀を鑑賞する独自のスタイルの展示室の黒い漆喰は、氣比神宮の土を用い、心落ち着けて村正に対時できる場となっています。
また写しや短刀を展示している眺憩楼には図録が置かれ、村正の妖刀伝説に関する論文を読むことができます。
漆黒のヴェールに包まれたもう一つの「村正」
先にご紹介したとおり、『三﨑大明神』の「村正」は、戦時下に刀身を守るために塗られた漆が残っており、漆黒のヴェールに包まれたままです。
このままだと、漆の下には錆が発生している可能性があり、さらには刀身へ浸潤していることが危惧され、一刻も早い除去が必要とされています。
そして今回、「宝刀村正 研磨・写し奉納プロジェクト ~村正漆黒のヴェールを脱ぐ~」として、桑名宗社は再びクラウドファンディングに挑戦しています。
その身を守るために塗られた黒き「漆」と、村正の名を世に知らしめた「妖刀伝説」という“漆黒のヴェール”を脱ぎ、二振の村正のみならず全ての村正が輝き続けるために――。
宝刀村正 研磨・写し奉納プロジェクト ~村正漆黒のヴェールを脱ぐ~ – クラウドファンディング READYFOR
https://readyfor.jp/projects/1543-5
現在挑戦中のクラウドファンディング
今回のクラウドファンディングでは、『三﨑大明神』に塗布された漆を除去して、松村壮太郎研ぎ師により研磨(修理)等を施すことと、上畠宗泰刀匠により『三﨑大明神』の「写し」を製作して、神社の施設内での常設展示ができるようにされます。
不破義人宮司は、
“多くの方のご支援によってプロジェクトを実現することは、村正が世に言われる「妖刀」ではなく、多くの人の気持ちや思いの宿った刀として後世に残り、100年、200年、300年後の未来に村正がどれだけ美しく、どれだけ愛されていたかの証明として在り続けることにつながるでしょう。”
と仰っています。
このクラウドファンディングは12月16日に第一目標の1,000万円に到達し、残りの期間もネクストゴールとして「2,000万円」を掲げて挑戦を続けています。
村正をはじめとした千子派の境内での顕彰を掲げ、顕彰碑の建立、式典、関連資料の整理と収集に活用されるとのことです。
宝刀村正『三﨑大明神』は、2025年(令和7年)に公開予定です。
この年は神宮の第63回式年遷宮の諸行事が始まる年で、神宮の御神体である八咫鏡を納める御樋代木の御用材が、木曽(長野県・岐阜県)の御杣山で伐り出されます。
そして、桑名宗社に運び込まれて合流し、共に神宮へと出発します。
令和7年は「村正=桑名」だけでなく、神宮との繋がりも感じられる年になるのではないでしょうか。
桑名生まれ桑名育ち。大学で県外に出て改めて地元の良さを知りました。桑名の良いところを発信します!
得意ジャンル
観光・イベント・歴史・文化・グルメ