ホーム 00Otona Act 地域課題 これからはお茶でも飲みに、お寺に行く。漁村の和尚から聞いた物語とか。

これからはお茶でも飲みに、お寺に行く。漁村の和尚から聞いた物語とか。

 

お墓が堂々としている。
三重の漁村に引っ越してきた僕は、そう思った。

外から丸見え。実は僕が勤める会社の真隣。

東京にいた頃、
心理的瑕疵と注釈のついた物件に二年住んだ。

周辺に嫌悪施設があるとのこと。
なんのことかと思ったら、お墓だった。

そのお墓は高い塀で囲まれていて、
外からはまったく見えないようになっていた。

まるで存在しないように存在している。
それが都会のお墓。

なのにこの漁村といったら。
なんて、お墓が「堂々と」しているんだろう。

バス停を降りたら、お墓。

「どうしてここの墓地には、塀がないのでしょう」

お墓のことを聞くために、
僕が住む阿曽浦集落にある片山寺を訪れた。

だって当たり前じゃないですか、お墓があるっていうのは。

和尚さんは言う。
この集落の人々は、お墓が隣にあることを嫌がらないようだ。

どうやら今まで僕が住んでいた地域とここ阿曽浦では、
お寺とお墓の”ポジション”が違う。

毎日誰かしらが、お墓参りに来ている。

漁村の和尚さんに、
もう少し話を聞いてみようと思った。

お寺は「高いところ」にあった。

津波一時避難所。

漁村にはいくつもあるけど、
お寺は高確率で避難所に指定されている。

この周辺のお寺の多くは、
高いところにある。

階段を登りきったところに、お寺があった。
そして、和尚さんがいた。

ここを見せてもらった時に、ああこんなええとこないなと思って。
このお寺をやらせてもらえるんやったら有難いなということで、
そんな具合で来たんですけど。

生まれは岐阜。
お寺からみえる海の風景に惹かれたそう。

どうぞ、お茶でも一服していただいてからお話しましょう。

和尚さん自作の陶器でお茶。
一緒にいただくのは、和三盆。

ホッと一息ついて、
集落の風景を眺めてみた。

良い景色だった。

 

集落一個につき、一つのお寺がある理由。

集落という概念が薄い都会の人には、
そもそも集落というものがわからないかもしれない。

説明するなら、それは人々の居住区のこと。
人が集まり、互いに助け合いながら暮らしている。

一年に何度か出会い作業というものがあり、
草刈りやお墓掃除を共同で行っている。

集落の区分けが色濃く残っている田舎の地図をみると、
各集落ごとに一つずつお寺があるのがよく理解できる。

阿曽浦はもともと二つの地区(浦・里)が合併しているため、
二つのお寺がある。

これには、檀家(だんか)制度というものが影響している。

江戸のはじめ、キリスト教が禁教になりましたね。

禁止する手前、どこかのお寺に所属するようにと幕府からお達しが出て、

日本国民すべてがどこかのお寺の檀家ということになったんですね。

阿曽浦里地区の人々が片山寺に所属するといったことが、
日本全国で同じように行われた。

キリスト教の禁教がとけてから200年以上が経過したが、
ここ阿曽浦にはいまだにその名残がある。

基本的に檀家さんは阿曽浦にしかいません。

けれど阿曽浦から出ていった方も、親の回忌になると法要をお願いしに来られたり、他にもお葬式を頼みに来られたりします。

集落に一つずつあるお寺。

どこのお寺で葬式をあげるかということが、
集落の区切りになっているともいえる。

この地域ではそれくらいに、
お寺が集落の中心にある。

お寺にあった、大切な役割。

集落にあるものを見つめ直してみる。

スーパー・役場の出張所・郵便局・ガソリンスタンド……。
生活に必ず必要なものが、なくならずに残っていることがわかる。

このラインナップのなかに、
もちろん”お寺”もある。

お寺もまた、田舎にはなくてはならないものだ。

 

昔はお寺っていったら、

駆け込み寺っていいますけどね。

離婚の仲裁してみたり、揉め事の仲裁をしたりですとか、

小さな家庭裁判所くらいの役割を果たしていたのは事実でしょう。

揉め事があったとき、駆けつける場所。
人々の間の争いごとを仲裁するのも、和尚さんの仕事だった。

それ以外にもまだある。
“寺子屋”という言葉の通り、学校の役割もあった。

町の子どもたちをお寺に呼んで、
机を並べさせて読み書きを教えた。

和尚さんといえば昔は、博識で字が綺麗。

読み書き・計算くらいは教えれたんですね。

学校の先生から裁判まで。
なぜ、和尚さんというのはここまで”万能”な存在だったのか。

阿曽浦のお寺の歴史を聞く。

阿曽浦は昔、陸の孤島と言われていた。

1968年に南島大橋・阿曽浦大橋が完成するまで、
集落外へ赴く際の最短ルートは”船”だった。

海と山に囲まれた集落。
そんな集落にあるお寺ならではのエピソードがある。

崇山(そうざん)禅清大和尚の話。

崇山和尚は、慶長六年阿曽浦に生まれた。霊泉庵の長韻和尚に見込まれ弟子になった。小僧としての修行が一〇年ほど続いた一九歳のとき、不幸にも長韻和尚が亡くなったので、若くして霊泉庵の住職になった。その頃、京都の妙心寺から道方の法雲院に来ていた大疑和尚が崇山の人柄と識見に感心し、岐阜の愚堂という名僧にひき合わせた。崇山は、愚堂和尚のもとで、日夜修行に励んだので、りっぱな僧としての評判は四方に広がった。崇山のもとにたくさんの小僧が弟子入りしただくでなく、教えを受ける大名まであらわれた。慶安元年、崇山は推挙されて、妙心寺の第一座という重い役につき、名僧としての名を更に高めた。(南島町50周年記念誌)

“陸の孤島”で育った青年が見た”外の世界”は、
どれほど広く映ったことだろう。

そして、名誉ある地位を得て帰ってきた崇山和尚は、
集落の人からどれほど”崇”められただろう。

崇山和尚のように、
和尚さんとは外の土地で修行を積んでから、
自身が積んだ知識や徳を地域に伝える存在だった。

崇山和尚は阿曽浦に帰ってきてから霊泉庵の名を片山寺と改め、
臨済宗妙心寺派のお寺として、人々に教えを伝えたと言われている。

外から新しいものを取り入れて地域に伝える。
それはかつて、地域の人々から信頼される和尚の仕事だったのだ。

和尚さんがいない集落が増えている。

驚いたことに、阿曽浦の片山寺の和尚さんは、
大江・道方という隣接する集落のお寺の和尚さんも兼務している。

三つのお寺の和尚さん。
最近はそんな”兼業”が増えているそうだ。

小さい集落やとね、

和尚さん一人の生活を支えていけないですよね。

和尚さんもある程度食べてく糧がいるんで、

この集落だけで和尚さん一人やっていってもらうのはようしませんって、

近くの和尚さんを呼んで兼任してもらうんですね。

集落がお寺を支えている。

だからこそ集落の人口が減ると、
集落で一つのお寺は維持できない。

市町村の合併によく似ている。

ここ旧南島町には10ヶ寺。
我々の宗旨のお寺があるんですけど、

和尚さんがいるのは4ヶ寺しかない。

10のお寺を4人の和尚さんで支えている形です。

和尚さんのいない集落。

和尚が果たしてきた”役割”は、
一体誰がどうやって引き継げばいいのか。

限界集落。

過疎化などで人口の50%以上が65歳以上になり、
冠婚葬祭などを含む社会的共同生活や集落の維持が困難になりつつある集落。

お寺の和尚の役割は、なくなしてはいけない。

そして再び、お墓の話。

片山寺の和尚さんが、
和尚さんになるまでの話をしてくれた。

一週間寝ずの座禅をしたとか、
禅宗の修行はストイックだ。

そのなかでも、
僕の心に残ったエピソード。

私が別のお寺で修行していた頃、夜中の三時に起きて鐘をついたんです。

ですけど周りにマンションができて、やかましいと言われるんですよ。

そのお家が建つ何百年も前から、そこではこの時間に鐘がなってたんですけどね。

集落になくてはならないもの。
いま人々にとって、お寺とはどのような存在なのだろう。

お墓の”塀”の話にも、
その本質はここにある。

人がいっぱい住むようになって、

普段の自分の生活のなかで視界にお墓が入るっていうのが

気分が良くないってことですよね。

人は死んだら、お墓に入る。
お墓ってもう少し、身近なものじゃなかったか。

 

当たり前のものじゃないですか、お墓があるっていうのは。

和尚さんの言葉が、目頭を熱くさせた。

それが申し訳なさからか、
それとも感謝の気持ちからかは判断がつかない。

ーー和尚さんから社会に物申したいことはありますか。

最後にした質問に対して、
和尚さんは謙虚だった。

我々がお坊さんのレベルを上げないといけない。

人間として手本になるとまでは言いません。

少なくとも、後ろ指指されるようなことだけはしないように。

 

お坊さんとしての一個手前、

人間としての立ち振る舞いであると思うんですよね。

 

また、お茶でも飲みにいらしてください。
本来お寺って、そういうところですから。

和尚さん。
本日は有難い話、ありがとうございました。

また、来ます。

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