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“サーファーの死生学” 絶命から帰った彼の命のほどきかた @ 国府の浜

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フリーサーフィンを楽しんでいた2018年の夏、久しぶりに再会した彼は特別な高齢者サーファーで、常に赤のウエットスーツを着ている。

全身赤のウエットスーツには理由がある。

 

ISE LOCAL LOCATION

 

サーファー達はよくニックネームで呼び合う。みんな彼を「森やん」と呼ぶ。 昔から同じポイントでサーフィンをしているが、心臓にペースメーカーを埋め込み、波乗りを続けているとしか周りに知られていない。しばらく彼に会っていなかった私は、正直ずっとサーフィンを続けていた事を知り衝撃を受けた。そして私は彼に引き寄せられる様に連絡を取りたくなった。

なんでもない坂道だが、100Mを全力疾走した様な心拍数と息切れになると言う。

志摩市甲賀町にあるコカ・ブルーに行く。このカフェレストランに彼はやってくるのだ。お店のマスターに連絡先を訪ねると「森やんだね、彼の命もだいぶ短くなったよ」と呟いた。私は「彼が気になるんですよ」と話し、連絡先を受け取り早速電話をした。すると細い声で「あぁ、井村くんだね!了解だ。この連休海に行くから」と返事をもらい撮影する事になった。

海に降りるための最後の難所、この防波堤で体力のほとんどを使ってしまうんですよ。だから時々若い人たちが助けてくれるんですと話す。

 

森下 周三  (もりした しゅうぞう)

 

東大阪在住 国府の浜に50年以上通い続け、年齢も70歳が見えて来たサーファーだ。

彼の左胸に埋め込まれたペースメーカの跡。私は彼を初めて高齢者なんだと思った。なぜなら海の上で見る彼の姿は、とてもエネルギーに満ち溢れて、今も若々しいからだ。

痛々しく見えるが、最近はよく馴染んでくれている。この器具も保険適応だし、障害者認定で医療費は免除されてるらしい。医療関係の方々には感謝しかないと話す。

知識のない私にペースメーカーの事を説明してくれる。それは一度埋め込むと、通常5年は稼働できるそうだ。それは心臓の脈拍を正常な数値へ整えてくれる医療器具。ドクターからは極度なスポーツは控える様に指示され、腕立て伏せすら良くないらしい。また磁場の強い場所を避け、定期的な診断が必要で電池交換は外科手術となる。いろいろ面倒な事だらけだ。

健常者の脈拍は一分間に約60〜90回の脈拍だと言う。それを彼は当初は50回、すると貧血が多いので今では60回にしている。

 

患者としては当然守るべき事は忠実に守るが、「でも、それはできない!」ときっぱり彼がドクターに言った事がある。それは「サーフィンは続ける!」と言う事。そしてお願いして「手術の時、パドリングがしやすい位置に調整してもらった」と話す。

とても明るく、彼は簡単に自分を話す。だが内容の深さが解ってくると、どれだけ大変な事をしていたのかが見えてくる。

 

「拡張型心筋症で、よく子どもや赤ちゃんが海外に行って、臓器移植をするアレですよ」と軽く話す。そしてこれが障害者手帳だと見せてくれる。そして1週間の薬も。

 

 

 

 

15分の心肺停止

彼が59歳の時、地元東大阪の人通りの多い駅前で突然倒れた。心肺停止になった。意識不明の状態で病院に運び込まれ、心肺蘇生が続けられた。心停止から7分が経ち、そして8分が過ぎた。一般的に人が障害の無い状態で帰ってこれる限界をはるかに超えてしまったのだ。そして15分が経ち、彼の心臓はやっと反応した。ドクター達は重度の後遺症が残ると判断していた。

「自分には意識ない事だったけど、8日間集中治療室にいたらしい。」と笑って話す。ドクターからは全てが初めての症例ですと言われて、脳への障害が何も残らない状態は奇跡だと言われたと話す。

奇跡的な回復そして退院。その3日後いい波がきたらしい。早速波乗りに出かけた。わずか三日でペースメーカを付けての初めてサーフィンだ。もちろんドクターからは勧められていない。

心肺停止の一件から10日もしないうちに海に復帰する。無謀な行為だ。

彼のペースメーカには、除細動器やデーターのメモリー機能も付いた国内でも珍しい器具だと話す。それがいきなりサーフィンをする海の上で除細動器、つまりAEDが始動した。本人は「雷に打たれた」と思った。少し写象できるシーン、人形が電気ショックで飛び上がる映像のあれだ。それがその日のうち、なんと3度発動したのだ。彼も「さすがにこれはまずい」と思ったらしい。「あと二回発動したらバッテリーが切れる。そしてこの衝撃に耐えるのにも限界だった」と話す。これが彼の第二の命を使ったサーファー人生の始まりとなった。

今では真面目に体重計で自分の数値を記録する。波に乗る体の管理を怠らない様になったのは、周りへの配慮もある。ちなみにサーフィンをした後体重が増えると話す。それは肺に水が溜まった事になる。「この日増えましか」と質問すると、「約1キロ増えたね。つまり1リッターだ。」と説明してくれた。

 

 

 

 

なぜサーフィンを続ける

ペースメーカを付けている人は沢山いるが、そんな状態になってさえ、10年近くサーフィンを現役で続けている人を私は知らない。森やんに、「どうしてそこまでしてサーフィンを続けているのか」と疑問を投げかけた。

若者達には想像できない老年の宿題がある。 それは近づく死にどう向き合うか。これは大人の痛みを伴う授業で授かるもの。

 

すると「もちろん好きだから続けてる」と返ってくる。「でも1度死んでから考え方が変わったかな」とも話す。いったいどう変わったのだろう。彼の話す言葉に、私には見えない何かがある様なそんな期待で彼の声に耳を傾けた。

自分勝手だと言われるサーファーは多い。そして彼も曲げずに自分を静かに貫く。人に迷惑をかけた分、周りの迷惑になりたくないと言う思いは強い。独り身になり、私を知るサーファー達にただ最後の頼みがあると話す。

もう命を失う怖さはない、すでに自分は死んでしまった人間だ。それより「自分がどこで命を終えるか、どうすれば周りの人に迷惑をかけずに塵となれるか。」そんな事を毎日考え、命の終わり方を背負い、この海をその場に決めていると静かに話す。

もし、海で遺体となった場合の後始末をなんとかお願いしたい。私が海にいたら丘にあげてほしい。それだけは自分で出来ないんだよと。

そしてただ自分には希望があると言う、それは「人知れず去りたい。宗教的儀式はしてほしくない。ただ海が最後になればいい」と。そのため発見されやすい様に、赤く派手な色のウエットスーツを着ているんだと教えてくれた。

 

 

 

 

『全ては水がら生まれた』そんな言葉が彼に似合う。

幼児も母の胎内の水で育った。だから泡の様に儚い命の行き先も、最後は水を求めるのかもしれない。

 

 

 

 

 

サーフィン歴、半世紀

国府の浜を語る

 

シェブロンカフェに場所を変え、50年前の国府の浜の話になった。

第一次サーフィンブームがまだ始まる前、関西でサーフィンができる場所があると大阪の仲間で噂が広がった。当時「サーフィンは海外でないとできない」と思い込んでいた。まだ誰もやった事のないサーフィンに興味を持った森やん世代。当時はロン毛でヒッピーな若者だった。そうした若者が板を持ってこの海にくると「ほんまや!波がある!」と関西サーフィンの文化が始まっていった。

 

国府の浜の波を見つけて以来、メインポイントの今ではマンションになっている場所に、さざなみと言う宿があり、そこを拠点にサーフィンを続けていったと話す。

平日は大阪で建築関係の仕事で生活の基盤を稼ぐ。波がある日は国府の浜でサーフィンをする生活が始まった。当時のテトラポットがない時代、メインの幻のグフィー波の話になる。(詳しくは復活する幻のグーフィー記事で)今では面影の無い波と地形になったと話すが、当時一年の内360日は波が上がっていて、冬でもサーフィンができたと話す。

一番テトラのアウトサイドから二番の左をかすめるくらいにいい波がブレイクしていて、自分より若い地元の子どもたちがこの辺りにゴロゴロいましたよ。と話してくれる。

「地元の子ども達はひとつのサーフボードを順番に回して海に入っていたり、ウエットスーツを交代で着ていましたね。そんな中にエヘやワハがいましたよ。」と昔を振り返って話してくれる。

「旅館さざなみのお姉ちゃんがいてな!」と話の中で何度も名前が出てくる。どうやら鵜方駅近くの中華料理店来々軒のお母さんらしい。ではと言うことで来々軒に定食を食べにいった。

「今でも印象に残っているのは、テトラが入る前にも死亡事故が多かったと言う事。特に海水浴に来ていた若い銀行員二人が、同時に流された事を思い出します。そしてテトラポットを投入した後、そこに挟まれ命を亡くす事故は当時から多かった。」と話す。

 

そしてその後ワハさんに会いにいき、昔の写真を眺め当時のサーファー達の話で盛りあがる。35年ぶりに出会うサーファー仲間やシングルスティンガーやツイン、楽しいサーフボー談義だ。

 

 

 

 

どうして海なのか

 

若い頃から、冬場の寒い海に入れない時期はスキーに出かけた。指導員程度の技術にもなったと言う。でも自分は海だったと語る。「どうして海なのか、なぜサーフィンなのだろう」私は客観的にその関係性を知りたく質問していった。

自分が心臓に疾患を抱え、単純に今一日を生きる悔いのない価値ある場所は、この海だとはっきりしていると話す。

ペースメーカーを付ければ普段の生活ができる。それはとても素晴らしい事だ。当たり前の事が普通にできる幸せ。彼はなんの不平も言っていない。でも「自分にはまた違う病気や問題が生まれてくる事が解るんだ」と話す。「それは天気図を見て、波の有る無しがわかる様なもの。ストレスが心も体も崩していく。良く無い波の方が影響力が強い」と彼は話す。

「社会で人が働き、生きて行く事はストレスが生じる事。それが人の心や体を虚しくする事が分かっているから、自分は素直に感性に従う。」 だから「心臓に物理的な問題があっても、海で自分の心を救い出してあげたい」と話す。彼は心臓に心が宿っていると信じている。

 

 

 

 

 

自殺願望がある人に

言葉をかけるとしたら

 

死の定義にも論争がある、心臓は命の最も大切な臓器だ。それはまさに命の象徴。そして心が宿り、手を当てるなら生きていることを感じれる場所。

「きっと何かから解放されたい。逃れたいと言う気持ちを持っているんでしょう。」「正直その辛さは本人しか分からないものだから、いくら他者が声にしても届かないでしょう。」でも命についてどう向き合っているのかを、ありふれた自分みたいなサーファーから、もし学べる事があるなら、記事にして読んでもらえると嬉しいと話す。

 

 

 

サファーは波乗りを人生に例える。

彼らは人生の波も、パドリングで掴んで来た。

 

当たり前の様にサーフボードに浮かび、気持ちよく海に浮かんでいた。だがある日、心臓付近に突起物が邪魔をする様になり腹ばいになるだけで痛みが走る様になった。

 

一人でサーフィンをしているのは、ただ自分が残っただけ。なんの特別なこともない。ただ永く続けるには秘訣がある。それは「自分の力量にあった歩み方をする事、他者と比較しない事、そして無理はしない事。」またつけ加えるなら、「またいい波に必ず乗れると言う希望を持つ事。決して上手さや目立つ事が世界の全てではない事。ありのままのあなたを評価する世界がある事。」それを彼は教えてくれた。

人生に痛みを感じる世代、普段できていた事が出来なくなった世代たち。平凡がどれだけ幸せな事だったのか思い知らされる。ただのパドリング、つまり波を掴もうとサーフボードの上で腹ばいになるだけが辛く、こんなに痛いのか。ただのパドリングがこんなに、と嘆く時があるんだ。

以前のように肩が上がらなくなった、年齢によるものだ。今日の波は小さいが流れが強い。でも少しでいい。腕が動かなくても、少しの手を彼は動かしてきた。

 

ウエットスーツメーカにその部分を柔らかい生地で二重にしてもらった。でも痛みは取れない。彼は自分の足で探し回って見つけた物がある。それが救世主となる。それはジェルで出来た保冷剤だった。とても患部にフィットし、一気にパドリング時の苦痛が楽になったのだ。

海から帰った時、その疲労でどれだけ自分の命を削ったか解ると話すが、命を粗末に扱っているわけではない。

今でも完全に痛みは取れないが、彼は常に波に乗る自分をイメージした。波に乗れなくても海から上がった時、自分の心が養われているのがわかるからだ。

また人によっては自分が見なかった所、気に留めなかった足元、そんな場所に彼の保冷剤があるのかもしれない。

 

 

「海が好きだから」と話す森やんの言葉。「なぜ好きなのか」を質問した時。「具体的な言葉は見つからない」と返すが、彼のサーファーとしての人生を終えるための姿が答えだと気がついた。

私が彼に引き寄せられたのは、彼の感性、彼の感覚。命も全ては母の水から生まれ、人はまた生まれた場所を愛する。こうした彼のサナトロジー(死生学)を感じたからだ。

 

過去サーファーは社会を逸脱した輩の溜り場。現在の若者サーファーはアスリートに変わった。国府の浜が移ろいでいく姿を見て来た年代が残す遺産。それはサーフィン以外に何もないからこそ見えたもの。それがこの場所だ。だから命も全てここに置いていく。

彼はサーファーとして生まれたこの海で青春を過ごし、そして大人になった。自分より若いサーファーが亡くなっていく姿を見、己が枯れる時間を知る。海で育った生き物はまた同じ海に帰っていく。この海には心地いい母親の香りがする朝日と、夕日があるんだ。

 

 

 


SpecialThanks

 

Syuzou Morishita

やがて来る除細動器5回の作動

その時を感情移入する。

彼がサーフボードを持って海に立つ姿を見る時

私たちには尊敬しかない。

海で赤いウエットスーツを見かけたら、その色に意味があったことを思い出す。

 

 

CoCa Blue    

 CoCa Bluehttps://www.cocablue.net

カフェレストラン以外に宿泊もできる。サーファーのためのお店だ。

 

来々軒  

三重県志摩市阿児町鵜方付近

来来定食、大トンテキ定食。現在もあの味は健在でした。

 

Seaside Surfshop

シーサイドサーフショップ店内にいた藤橋康幸、佐藤尚也、永井啓介,ワハさん達との記念写真。

伊勢志摩には伝説を作るサーファー達の話がある

 

Akio Hamamura

復活するグーフィー 第二テトラを撤去

海で見かけるとサーフボードを運ぶのを手伝ってくれる。これで難所もクリアーできる。

 

Shevron Cafe

 


 

おまけの動画

サーファーの死生学編

※記事の内容とイメージが異ります。

再生にはご注意ください。

 

 

 

 

 

 

y_imura

yoshitugu imura。Otona Muster 兼 記者。サーファーからフォトグラファーに、海に持っていったギターでミュージシャン活動もする(波音&Ustreet )ドブロギター奏者。伊勢市在住。
この記者が登場する映像  

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