『昔住んでた小さな部屋は、今は他人が住んでんだ』
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ソラニン』という曲は、
こんな言葉からはじまる。
大学に通っていた頃、
学生街の端っこにアパートを借りて住んでいた。
東京に行くことがあるとつい、
若者なりの郷愁感に浸って「自分の部屋」まで行きたくなる。
それから到着したはいいものの、
ポストに書かれた「自分じゃない誰か」の名字に妙な違和感を覚える。
ポストの暗証番号もわからないし、
玄関を開ける鍵もない。
毎日帰宅していた場所に入れなくなってしまったことに、
今更ながらに気づかされる。
人は夢や理想を求めて、
あるいは現実に追われて土地を去る。
僕が暮らしを営む三重県南伊勢町には、
そうやって取り残された「思い出箱」がたくさんある。
しかし、一度きりの人生を生きねばならぬ人間と違って、
家は何度でも物語の舞台となることができる。
生まれ育った土地への想いを秘めた若者が、
「思い出箱」に新しく息を吹き込む物語。
家は何度でも人々の拠り所になることができると、
気づかせてくれる物語。
日曜のお昼だけ営業するCAFE
24時間営業のコンビニは、
便利でも風情がない。
この日この時間しか空いていないとなると、
どうにかしてでも都合を合わせて行きたくなる。
そんな術中に勝手にはまり、
僕は「どうにかして」、日曜昼限定のCAFEに赴いた。
ここは南伊勢町・河内。
河内川沿いをひたすらに進む。
イチョウの木が目印。
お目当のCAFEが姿をあらわした。
空いていてよかった。
もし閉まってたら、次挑戦できるのは一週間後。
お客さんの笑い声が響く店内
「ありがとうございました」
この言葉を言う役割は、一般的には店員さんだと思う。
でも、このお店は違う。
ご飯を食べ終わって出ていくお客さんが、店員さんに向かって笑顔でお礼を言う。
お客さんとかもさ、気がいいし。変なこと言うてこうへんしさ。
ちゃんと人間関係ができとる。
さしたるっていうよりはしてもらうっていう人間関係で接してくれる。
この土地の人間性が、おれにはあっとるかな。
そう語るのは、南一起(みなみ かずき)さん。
日ようカフェのスタッフで、この物語の主人公だ。
彼は大学進学をきっかけに京都へ引っ越し、
4年前に地元へ帰ってきた。
関西に行っとった地元の友達が、みんな帰ってって。
それでもおれだけ京都に残っとったんやけど。
休みの日は飲みに行ってさ、
それ以外なんもすることなくてさ。
飲んでばっかやし、代わり映えせんなって。
帰ろうって。
住み慣れた町、生まれ育った河内。
彼にとって、一番落ち着く場所なのだ。
さて、本題に入る前に腹ごしらえをしなければ。
おばあちゃんに大人気の海老フライ定食。
イチオシの厚焼き玉子サンド。
そんな強豪たちを脇目に、
僕はねぎロールチキンを注文。
味については言及するまでもない。
もし美味しそうに思えないなら、それは僕のカメラのせいだ。
それにしても、日曜だけの営業にかかわらずメニューが豊富だ。
厨房に立つシェフが、メニューの裏話を教えてくれた。
メニューは頭のなかで考えます。
試作をいろいろ作って、外野に味見してもらってます。
メンバー全員で編み出す味なら、間違いない。
シェフは、笑顔がとても素敵な人だった。
保育所だった施設を再利用
日曜カフェをする建物の名前は、わかくさ園という。
ここは昔、「わかくさ保育所」という保育園だった。
ここで昼寝した思い出がすごくあるよ。
最初は狸寝入りしとったんやけど、そのうち寝とったりとかな。
何十年も前の思い出を懐かしそうに語る「卒園」生。
当時の保母さんたちも、日ようカフェの常連だという。
懐かしがって来てくれるそうだ。
何十年も前に閉園となった保育所は、
その間使われずに放置され続けた。
かずきさんが子どもの頃はすでに保育所の姿はなく、
「物置小屋」のようだったという。
建物はずっと閉めきっとった。
クーラーもなくて、汚かったんさ。
カーテン閉まって、鍵閉まって、物置小屋みたいな感じ。
そしてついに、取り壊しの計画が浮上した。
建物の維持管理にはお金がかかる。
「役割を終えた」と判断された保育所は、ついにその最期を迎えようとしていた。
その時、反対の声が上がった。
保母でもなく卒園生でもなく、
保育所が閉園した後に生まれたかずきさんの声だった。
ここの建物が取り壊される予定やったん。
それ聞いて、壊したないなって。
なくしたくない。
この感情に無駄な説明はいらない。
かずきさんは区と掛け合った。
建物をどうにかして残せないかと。
区から提案された方法はひとつ。
建物を自分たちで維持管理すること。
かずきさんは、建物を引き取った。
建物のルーツを引き継いだわかくさ園
南伊勢町には昔、各地区に青年団があった。
河内も例にもれず、
河内青年團が活動していた。
野球チームを作って試合をしたり。
床屋がなかったために、理髪部を作って子どもの髪を切ったり。
そんな活動の軌跡を記録したアルバムが残っている。
実はこの建物自体、河内青年團が建てたということだった。
それならば。
青年團をもう一度復活させて、
青年團が建物を維持管理することにしよう。
わかくさ保育所は「わかくさ園」として、
新しい世代の「河内青年團」によって未来へつながれた。
目指すのは、みんなに使ってもらえる場所
わかくさ園は取り壊されずに済んだ。
しかし使われることがなければ、
また同じことが繰り返されるだろう。
二度と物置小屋にはさせない。
河内青年團の決意に沿う形で、
わかくさ園は誰でも自由に使えるレンタルスペースとして開放されることになった。
1日6,000円。
キッチンを使わなければ3,000円。
お金を稼ぐための手段ではなく、
もっと大事なもの。
わかくさ園は人間の想いに基づいている。
想いは想いを呼び、
そして人は集まる。
「日曜日にカフェがやりたい」
河内の主婦の声に、反対する者はなかった。
日曜日のわかくさ園はいま、
ランチを食べにくるお客さんで賑わう。
ピークの時間は30〜40人の席が、いっぱい。
わかくさ園のスタッフは言う。
おばちゃんなんかは一人暮らしで暮らしてる人も多いやんか。
「みんなと顔を見ながら、しゃべりながら食べれる」って。
「土曜日の夜は楽しみで寝られん」って。
楽しみにしてきてくれると、こっちもやりがいがあるな。
日曜日だけじゃない。
わかくさ園は金曜日、マッサージ屋さんになる。
元バンドマンの女性が始めた、
その名も『HEAVEN』。
なんにでも使ってくれ。
食べ物だけじゃなくてさ、
服屋さんが展示会で借りてくれるかもしれないっていう話もあった。
結局なくなったんだけど。
そういうのも大歓迎やからさ。
想いはひとつ。
わかくさ園を二度と、物置小屋にはさせない。
再び人が集まる場所になる
わかくさ園が夜市をすると聞いて、
再び「どうにかして」行くことにした。
かずきさんは台湾の夜市を思い浮かべていた。
屋台が敷き詰められたように並び、
その隙間を人々が縫うように歩く。
そんな夜市がわかくさ園でひらけたら。
到着したわかくさ園にはギターと歌声が響き、
楽しそうに祭りを楽しむ子どもたちの姿があった。
そして、かつてのわかくさ園の園長と、
何十年も前に河内青年團の團員だった区長の姿。
どんどん人が減って、衰退してくやろ。
昔は祭りもようけあったんや。それがどんどんなくなってって。
この建物も壊そうかって話になったんや。
それはやめようって。
若い子らが立ち上がってくれた。
わたしらはもう拍手。
なくなってくことは、悲しいから。
なあ。だってまたこうやって、人が集まってくれた。
園長さんの言葉に、胸の部分が熱くなる。
わかくさ園が保育所だった時代。
かつての河内青年團。
わかくさ園という場所は、
そんな物語があったことを次世代に伝え続けてくれる。
みんなのやりたいことができる場所になってほしい。
それぞれのな。
かずきさんの想いをのせて。
わかくさ園はこれからも、
河内青年團とともに歩む。
わかくさ園
住所:三重県度会郡南伊勢町河内488
シティーボーイを捨てて、神奈川県から三重県南伊勢の漁村に引っ越しました。職業は新卒漁師。