クッキーが大好きな姉にプレゼントをしようと、「美味しいお菓子屋さんはないかな」と探していたある日。SNSで「彼女のお菓子屋さんを勝手に応援する彼氏」というアカウントを発見しました。
何だか面白そうだなと投稿を見てみたら、“彼女” のつくるお菓子がとても美味しそう。しかもプレゼントにピッタリの包装デザイン。「お取り寄せしたい!」とみたいと調べたところ、なんと多気町にあることが判明。
せっかくだから買いに行こうと思ったけれど、オープンしているのは月に一度。しかも量り売りという販売方法でした。お菓子をつくる “彼女” の名前は、古儀(こぎ)たまみさん。
2022年、24歳で祖父母の和菓子屋さんをセルフリノベーションし、お菓子屋さんを開業。なぜ多気町丹生(にゅう)で、しかも月に一度しかオープンしないお菓子屋さんを始めようと思ったのだろう。その理由が気になって、取材を申し込みました。
パティシェとして感じた違和感
静岡県で生まれ育った古儀さん。週末になると家族で山に出かけ、自然に触れ合う暮らしを送っていたそう。
「山菜やタケノコを採ったり、焚き火でホットケーキを焼いたりして、山での時間を過ごしていました。母は普段から手作りのクッキーやパンを作ってくれて、外食もほとんどしたことがなかったですね。そのうちに自然とパティシエになりたいという目標を持つようになりました」
専門学校を卒業すると、パティシェとして有名ホテルに就職。スイーツ部門でコース料理、ウェディング、カフェなど、さまざまなシーンで製菓をつくる経験を積みます。しかし2年ほどで退職することに。
「大量に作って廃棄するスイーツを見て、怖くなったんです。捨てることが日常になっている自分自身も嫌になってしまって。コロナ(ウイルス)が蔓延して通常の営業ができなくなったときに、もういいかなと思って辞めることにしました」
パティシェから離れ「今、やりたいことをやってみよう」と、新たな道を探し始めます。
「高校生のときに青春18切符で日本をめぐっていたことを思い出して、東北を旅することにしました。伝統や土地に根付く文化が好きだったので、東北の伝統工芸について知りたいと思ったんです。でも旅するにはお金も時間も必要。しかも伝統工芸品は気軽に買える金額ではないので、見ることしかできない。得られるものがない旅を続けるのは嫌だと思い、旅をやめました」
その後、地元で一棟貸しの宿のアルバイトを始めることにした古儀さん。とんとん拍子でマネージャーになり、予約・宿泊の対応からメニュー開発、宿泊サイト運営なども任されるように。そんなときに出会ったのが山梨県の農家「秘露農園」でした。
「秘露農園さんは耕作放棄地を活用し、農薬や化学肥料を使わず、茶葉やお米、野菜などを栽培しています。私は秘露農園さんの『自然に近い状態で作物を育てる』という考え方に共感して、宿の仕事が終わると毎日の様にお手伝いに通っていました。汗をかいて土や風の音を感じながら農作業をしていると、ホテルを辞めて本当によかったと思いました」
秘露農園を手伝ううちに、古儀さんは課題を感じるようになりました。それは農家さんが手間ひまをかけて作物をつくったとしても、その労力に見合う収入を得るのは難しいということ。
「宿と農園のある場所は山梨でも特に過疎化が進んでいる地域です。イベント開催や情報発信のお手伝いもしていましたが、もっと人を呼ぶ力がないと難しいということを痛感しました」
宿の雇用契約が終わると、もっと多くの学びを得るために三重県でリゾートバイトに挑戦することに。そこで出会ったのが “彼氏” であるよっしーさんです。
「リゾートバイトをした後は、各地を転々としようと思っていましたが、彼氏と三重に住むことになって。ここでの暮らしを面白くするためにはどうすればいいんだろうと考えたときに、お菓子屋さんをするという選択肢が浮かんできたんです。その2ヶ月後には、製菓製造の許可書を取ってましたね(笑)」
「古き良きを愛そう。」
ひらめきの元になったのは、三重県丹生で祖父母が営んでいた和菓子屋。地元で長く愛された「しそ餅」をつくっていましたが、長く取引をしていたしそ(紫蘇)農家さんが高齢により引退。
「あのしそがなくては美味しいお餅がつくれない」と店じまいを決意されたのだそう。古儀さんが訪れたときは、店じまいをしたまま、何もかもが手つかずの状態でした。
「お店の片付けは、父も協力してくれました。きっと父は私のやりたいことを応援したいという思いもあるけれど、お店がきれいになったことが嬉しかったんじゃないかな。ぶっきらぼうな人ですけど、感謝してるって言ってくれました」
祖父母の気持ちを尊重したいと、以前使用していた机や棚、和菓子をつくる型や木箱などを残し、お店のディスプレイとして使うことにしました。
「祖父母も長く使っていたものを捨てることには抵抗があると思い、なるべく残すようにしました。『こんな切れ端まで使ってくれると思ってなかった、本当に任せてよかったよ』って言ってくれて嬉しかったですね。最近は使えそうなものをどんどん持ってきてくれるんですよ。『たまちゃんやったらかわいく使ってくれるやろ?』って」
自分の夢のために、祖父母の生活を変えたくはないと古儀さんは言います。だからこそ、店構えも変えることなく、オープンするのも月に1度だけ。また、大量生産、大量廃棄するお菓子はつくりたくないという強い思いから、通販での受注販売をメインにしています。
お菓子に込められたストーリー
こうした樹和堂をとりまくストーリーや、お菓子に対する考えを伝えるべく、想いをつづったZINE(小冊子)も発行しています。
『なるべく自然そのものの、身体にやさしいものを使ってお菓子をつくりたい』という考えや、小麦やお茶などの原材料を提供している農家さんの想いを知ってほしくて。私は万人受けするものではなく、想いに共感してくれる人がリピートしてくれるようなお菓子をつくりたいんです」
オーガニックの認証や表示で判断するのではなく、農家さんの自然に対する考え方、食物を育てる上で大切にしている信念に共感できるかどうか。それが「身体にやさしいもの」という言葉が指す意味。
「私がお世話になってる農家さんは、元の種を大事にしているから、品種を掛け合わせてないんですよ。だから焼くと少し固くなったり、薄くて素朴な味のものもあります。だから購入いただいた方には『よく噛んで食べると、本来の味わいをしっかり感じられます』と伝えています。捉え方で味わいが変わるということも、もっと伝えていきたいです」
背景にあるストーリーも素敵ですが、思わず手に取りたくなるパッケージも樹和堂のお菓子の魅力。実はデザインも古儀さんによるもの!
「小さい頃は、山に行かない日は大体図書館で過ごしていました。特にファンタジーな挿絵が書かれた本が大好きで、たくさん読みましたね。その世界を自分の頭の中で空想していたんですが、それが全部かわいくて。その『かわいい』は両親がつくってくれた環境によるものだとおもうので、自分の感覚を信じて、デザインをつくり続けています」
そのデザイン力を活かして、お菓子以外のプロダクトをつくることも。
「多気町には丹生大師というお寺があり、改修工事に先立って門の建て直しが行われました。その際、柱に使用されていた木材を一部、譲っていただき、アクセサリーをつくりました。江戸時代中期から約300年もの間、このまちの人々を見守ってきた貴重な材をただなくすのはもったいないと思って」
祖父母、両親、農家さん、そして自分がお世話になっているまちへ。古儀さんが生み出すものには、たくさんの感謝と愛が込められているのです。
“彼女” の未来の描き方
オープンから1年。SNSの反響も大きく、月一度のオープンをめがけて、東京や福岡からもお客さんが訪れるほど人気がある樹和堂。しかし、「お菓子屋さん」であり続けることに執着をしていないと古儀さんは言います。
「今後は、三重と静岡、山梨など他拠点生活をしてみたくて。まだ秘露農園さんをはじめとする農家さんと一緒にやりたいこともあるんです。私を必要としてくれてる人のために、もっと身軽に動けるような状態にしたいと考えています」
そのために、想いに共感して一緒に樹和堂を手伝ってくれる人を集めること、そしてリピートしてくれるファンづくりをしていきたいと考えているそう。そして、自分が得た知識や経験を、将来は家族やお世話になっている人のために役立てたいと話す古儀さん。
「周りの人から『ありがとう』と言ってもらえることをしていたい」という軸はぶれることなく、柔軟に勢いよく行動していく。話を聞いているうちに、すっかり古儀さんのファンになってしまいました。
夢はあるけど勇気が出ない。周りの目や世間体が気になって、身動きが取れない。そんな悩みを持つ方は、ぜひ樹和堂に足を運んでみてください。健やかで、エネルギッシュなパワーを持つ古儀さんがつくるお菓子を食べたら、一歩踏み出す勇気が出るかもしれませんよ。
樹和堂オンラインショップ:https://kiyorido.theshop.jp/
樹和堂Instagram:https://www.instagram.com/Kiyoridou/ |
OTONAMIE×OSAKA記者。三重県津市(山の方)出身のフリーライター。18歳で三重を飛び出し、名古屋で12年美容師として働く。さらに新しい可能性を探して関西へ移住。現在は京都暮らし。様々な土地に住んだことで、昔は当たり前に感じていた三重の美しい自然豊かな景色をいとおしく感じるように。今の私にとってかけがえのない癒し。