バブル崩壊後の就職が困難であった時期を「就職氷河期」と呼ぶ。現在の年齢が、概ね30代半ばから40代後半の方が該当するだろう。バブル崩壊後の景気の悪化により、多くの企業は新卒採用の削減や中止を行った。不況のあおりを受けて、倒産する企業も相次いだ。
今回は当時、就職活動をしていた3名の方にお話を伺った。今のようにネットで就職先を探したり、Zoomで面談することなどもできない。求人雑誌の中から募集条件を調べたり、学校に来る求人票に目を通すなど、自力で就職先を探すのも一苦労した時代だ。ある人は企業から電話やメールがいつ来るかわからないので、唯一電波の入る大学の研究室にこもりきりだったそうだ。
そんな時代に希望する仕事につけず、度重なる不採用の通知に心に大きな傷を負った人もいただろう。当時がどんな様子だったのか、そして当事者である人たちは何を感じていたのか。それぞれのストーリーをぜひ、自分に置き換えて読んでみて欲しい。
前へ前へと進み続け、ものづくりの仕事へ
「ものづくりの仕事について、ようやく自分に合う仕事が見つかった気がします」。そう話してくれたのは、四日市在住のYさん。現在は、半導体製造の工場で勤務している。初めての就職は、県内の大学を卒業してから2ヶ月後。地元・四日市にある建築系の人材派遣会社だった。
「在学中から人材派遣会社のアルバイトに夢中で、学業を疎かにしていました。卒業後も2ヶ月ほどアルバイトを続けていましたが、親の勧めもあって、地元で就職することにしました。その時までは就職難の渦中にいることをそこまで深刻に捉えられていなかったのかもしれません」
しかしその3年後、勤めていた会社が不景気のあおりを受けて倒産。Yさんは仕事を失ってしまう。初めて本腰を入れて就職活動に挑むが、なかなか決まらない。そもそも募集している会社の数が少なく、どの会社の条件も決していいと言えるようなものではなかった。
「本当は前職のスキルを活かしたくて、建築業界を何社か受けましたが、すべて不採用。何をしたいかを考える余裕もなく、とにかく生活をするために少しでもいい条件の仕事を探すことに注力しました」
最終的に、もっとも給与が良かった介護施設の総務職に応募し、採用が決まった。ところが「初めは現場を体験してから」と言われ、意図せず介護の現場で働くことになる。
「そこから、気づけば4年ほど経っていました。働きながらホームヘルパーや社会福祉士の資格を取得するなど充実した日々ではありましたが、当時は慢性的な人手不足や低賃金など、過酷な労働環境でした」
その後、転職先で介護施設の管理者に就いたが、働く環境は変わらず、さらに多忙を極める日々が続いた。新しい事業所の立ち上げに伴い、大阪で働くことになったYさん。しばらくは大阪で働いていたが、結婚を機に妻のいる三重に戻ることを決意する。しかし、戻ってくるためには、今までよりも過酷な条件をのまなければならなかった。
「同じ会社の中で転籍することになり、介護職からガスの配管工の仕事に変わりました。さらに正社員から契約社員に格下げとなってしまったんです」
Yさんは働きながら次の転職先を探したが正社員の仕事はなかなか見つからず、ひとまずは期限つきの契約社員として大手メーカーの自動車部品製造でオペレーターとして働くことにした。
「最初は細かなルールやチームでの仕事に慣れず苦労しましたが、ものづくりの仕事は面白いし、自分の気質に合っているなと感じました」
その後は、「ものづくりの仕事に就きたい」という目標を掲げ就職活動を行った。ものづくりの分野の会社を探し、面接を受けるといくつかの会社から内定をもらうことができたそうだ。
「ようやく念願の正社員として、内定をいただくことができました。工期や納期がきっちり決まっているところも仕事がしやすく、自分の性格にもマッチしている気がしますね」
これまでの道のりは苦労の連続だったけれど、へこたれない姿勢が身についた。前へ前へと進む気持ちは、無くしてはいない。時期を見て、氷河期世代に向けた公務員採用枠にも応募する予定なのだそう。Yさんの挑戦は、まだまだ続く。
人生のステップアップに挑み続ける
就職活動で希望の職につけず、悔しい思いをした方もいる。現在は名古屋で働くIさんだ。将来的には語学を使って、世界中の企業と関わる仕事がしたいと、東京の大学を休学しフィンランドへ。現地の日本大使館で働いた。自分の将来のためにと、あえて遠回りを選択したのだ。しかし、それが仇となってしまう。
帰国後に就職活動を再開したが、希望していた大手商社や銀行はすべて不採用。これまでの時間は何だったのだろうかと、一時は途方に暮れた。東京での就職をいったん諦め、地元の銀行に就職を決意する。
「同期には、東大、慶應、早稲田など有名大学の出身者が多くいました。どんなにいい大学をでていても、就職が難しい時代だったんです。例年は100人ほどいた新卒入社が、28人。就職できたのは良かったのですが、自分の持つ『世界中の企業と関わりたい』というモチベーションと銀行の目指すカラーが大きく違いすぎて、違和感を感じながら仕事をしていました」
7年後に銀行を退社し、外資系の金融企業へ転職。しかしそこでも、2009年に起こったリーマンショックによる影響を大きく受けた。金融業界は不安定な状況に陥り、業績をあげられなかった社員が次々とリストラを言い渡される。荷物をまとめて会社を去る同期の姿をみて、「明日は我が身だ」と毎日気合を入れ直した。
「不安ではありましたが、最初の就活の時に大きな挫折を味わったことで、メンタルが鍛えられたんです。不安定な世の中の変化に対応していかないと、生きていけない。チャンスをものにして、いかに自分を売り込むかを常に考えていました」
昨年もコロナ禍に関わらず、更なるスキルアップを求めて転職。コロナが落ち着いたら、東京で仕事が始まるそうだ。これまでの道のりを振り返りながら、Iさんはこう話してくれた。
「学歴は20代だから通用するもの。30代40代はそれまで培った日頃の洞察力や考え方が、社会で求められるスキルだと思います。就職氷河期世代として大変な思いをしましたが、私は努力を重ねること、苦労を厭わないことをそこから学んだので、氷河期世代だからと悲観せず、チャレンジしていきたいですね」
幾度のピンチに見舞われながらも、「世界中の企業と関わりたい」という思いをもち続けたIさん。これまでのピンチを糧に、さらに大きな夢をつかもうと奮闘している。
就職氷河期世代だからこそ身についた、生き抜く力
現在、行政書士事務所の顧問を務めるTさんも、「就職氷河期世代だったからこそ、今があるのかもしれない」とこれまでの道のりを振り返る。
「高校卒業後にすぐ働きたかったので、選り好みをしていなかったんですが、受けた会社はすべて落ちてしまいましたね。友人の中には、8社落ちた人もいました」
今のようにネットで仕事を探すこともできず、進路指導室で求人票を見て応募する形式だ。ただでさえ、学校との結びつきがある企業の情報しか回ってこない状況にも関わらず、就職氷河期に入り求人情報は激減した。
Tさんは運良く、担任の先生からの繋がりで地元の測量会社へ応募。とにかく就職したいという気持ちで、2つ返事で就職を決めた。しかし半年もしないうちに、給料は未払いになり会社は倒産した。次は今度は潰れない会社に就職したいと、18歳だった Tさんは作戦を立てた。
「今度は絶対潰れないであろう、地域で一番大きい会社に就職しようと決めました。普通に行っても落とされてしまうかもしれないならガッツを見せるしかない!と思い、直接会社の総務を訪ね、履歴書を手渡しました。こんな時代だからこそ、骨のある人を求めてるんじゃないのかなと」
Tさんは見事、採用。待っていても何も変わらない。自力で道を開かなければ、と必死だったという。
「仕事も総務職だと聞いていましたが、出勤初日にはフォークリフトに乗って倉庫整理だと言われました。でも、そんなものかなと思って前向きに受け入れましたね。自分の可能性を自分で閉じずにいれば、道は開けると思って」
倉庫での仕事は、ブラジル人の派遣社員が多かった。Tさんはブラジル人をまとめる班長を任されたそうだ。そこでTさんは必死にポルトガル語を覚え、彼らが楽しく仕事をできるような環境づくりを心掛けた。
そんなTさんの働きぶりを見ていた同僚から、派遣会社の立ち上げに誘われた。せっかく入った大手企業をなぜ辞めることにしたのかと聞くとTさんは、「やらないで後悔することはしたくなかった」と言う。
名もなき派遣会社のゼロからスタート。Tさんは自ら現場に出向いて働き、その働きぶりを認めてもらうことで新しい派遣先を開拓していった。結果的に1年で6社の契約を取り付けたそうだ。
「短期間で、いかに認められるかが勝負です。朝一番に出社して掃除して、どうすればいい環境を作り出せるかを常に考えていましたね。企業はどのような人間を求めているのかを客観的に深く考える良い機会となりました」
その後も接客業、倉庫業、建設業、映写技師、派遣業、サービス業、イベント業など、様々な業界で経験を積んだTさん。そんなTさんの経験や知識を生かして欲しいと、いくつもの会社からアドバイスを求められるように。2021年の夏に独立し、現在は行政書士の顧問や、会社の経営に関わる必要な申請の手続き等、あらゆる業種の困りごとの相談に乗っている。
「独立するにあたり、これまでの経験を生かせるのは行政書士だと思ったんです。これまで培った仕事に関する知識があるので、皆さんの困りごとに寄り添えるのではと。今はコロナによる影響が大きいので申請についての相談が多いですね。司法書士、労務士、弁護士などつながりのある方と、チームで困りごとを解決しています」
Tさんは就職氷河期に苦労したことで、人に寄り添う力が身についたと言う。
「現状を打破しよう、工夫しよう、切り抜けようと、ノウハウが蓄積されたんだと思います。もしかしたら就職氷河期でなくてストレートに就職ができていたら、今のような考え方に及ばなかったのかもわかりません。私にとっては就職氷河期が自分を成長させる良い機会でしたね」
今回お話を聞かせてくださった方は皆、「自分の話が誰かの役に立つのなら」と快く話を聞かせてくれた。
それぞれの話を聞き、聞いているこちらの方が「頑張らなくては」とパワーをいただいたように思う。お話を聞かせてくれた3名の方のように、自分が進んできた道を悲観せず、明日への力に変えることで、道は開けるのかもしれない。
【タイアップ】三重県雇用経済部 雇用対策課 若者・女性雇用班
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OTONAMIE×OSAKA記者。三重県津市(山の方)出身のフリーライター。18歳で三重を飛び出し、名古屋で12年美容師として働く。さらに新しい可能性を探して関西へ移住。現在は京都暮らし。様々な土地に住んだことで、昔は当たり前に感じていた三重の美しい自然豊かな景色をいとおしく感じるように。今の私にとってかけがえのない癒し。