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連載エッセイ【ハロー三重県】第一回「R23 ラプソディ」

三重県にお嫁にきてはや10年、数奇なご縁に恵まれてこの度otonamieでエッセイを書かせていただくことになりました。
ハネサエ. といいます。
仲良くしてください。

このエッセイでは三重県に来て驚いたこと、嬉しかったこと、楽しかったこと、おもしろかったことなどをとりとめもなく書いていけたらと思います。

地方の片隅のなんでもない世界がどれほど魅力にあふれているか、届けどこまでも、の精神で書いていく所存です。
三重県在住の方も、そうでない方も、楽しく読んでいただけたら嬉しいです。
毎月最終水曜更新(アラーム設定していいよ)です。よろしくお願いします!!


 

三重県に嫁いだとき、私はゴリゴリの運転初心者だった。
それまで暮らしていた京都は起伏のない盆地がどこまでも続いており、自転車さえあればどこに行くにも不便がなかったのだ。
しかも京都の道は碁盤の目。
東西南北さえ間違わなければそう簡単に道に迷うということもない。
移動はいつだって快適かつ簡便だった。

京都で働いていた会社はひっくり返りそうなほどあらゆることがアナログで、結婚後の進退についても例外ではなく、つまりアナログ思考だった。
既婚女性は退職せよとはっきりと提示されていたのだ。
曇りのない表情で「いつが結婚(入籍)で、いつが退職か」と上司から訊ねられるのはなんだかさみしいような、少し悔しいような、むしろすがすがしいような不思議な気持ちがした。

当時付き合っていた恋人は(今の夫)結婚したら実家がある三重県で暮らしたいと常々言っていた。
どうせ辞めなくてはいけない会社だし、京都が地元というわけでもない、しがみつくものもないし、知らない土地に住んでみたいし、それも悪くないな、と思った私は二つ返事で三重県に住むことを快諾したのだった。

いざ、三重県へ


最初に住んだ町は伊勢市と松阪市に挟まれた明和町という小さな町だった。
右も左も分からない町だから、大きなランドマークの近くか何かがいいな、とぼんやり思っていた。
例えば道に迷ったときに「わたしのおうちはどこですか」と誰に聞いても分からないだろうけれど、「あの○○のそばに行きたいんです」と言えば「ああ、あそこね、ここを通ってこうしてね」と合点してもらえると踏んだのだ。
明和町には明和ジャスコ(当時はジャスコだった。今はイオンと名前を変えているけど)があって、低い建物と広大な田んぼが広がる明和町では最大のランドマークが明和ジャスコだった
では、ジャスコのそばに住みましょう、と住むことにしたのはよかったのだけど、明和ジャスコはじめ、県内のジャスコの多くは(現イオン)は県内の方はご存知だと思うが、三重県民の大動脈、国道23号線沿いにあるのだ。

さくっと会社を辞めた私はさくっと教習所に通い、さくっと(20日足らずで)普通自動車免許を取得した。
今思うと、奇しくも季節は夏休みで、教習所は早く教習生をさばいてしまいたかったのではないだろうか。
私みたいな落ち着きがなくて、運動神経が悪くて、すぐに慌てる小心者がそんな短期間で免許を取得してよかったのだろうか。
取れてしまったものはごちゃごちゃ言ってもしょうがないのだけど、早い話が、三重県の路上に放り出された私は完全にパニックに陥ったのだ。

君の名は「ニーサン」

どこへ行くにもこの23号線(通称ニーサン)を通らねばならない。
私は路上駐車全盛期だった京都市内で免許を取得したのだ。
路上駐車が多くて、自転車人口が多い京都市で免許を取ること、それすなわち、時速40km/h 程度でしか走行したことがないということだったりする(高速教習は除く)。
ご存じない方のために説明すると、このニーサン、まず制限速度が60km/h だ。
それだけでも当時の私にはひっくり返るほどの衝撃だった。
しかも信号が少ない。
少し走れば信号があって、加速する前に停車していた京都の道とは大違いだった。
緊張感がすごい。
左側車線にしがみついていてもあっという間に後続車に追いつかれてしまうし、右車線を見れば高速道路かと思うほど皆がビュンビュン走っていく。
そして、大動脈だけあって、大型トラックがいつだってそこかしこにいる。
京都の路上にもトラックはもちろんあったけれど、それ以上に多いタクシーが町を席巻していたので、三重県に来たときはトラックへの衝撃がだいぶ大きかった。

うまく加速できない私は後続車に怯え、右折するにも右車線の速度にひるんで車線変更ができず怯え、そして停車しているときでさえ、隣の車線で停車しているトラックの大きさに怯えていた。
倒れてきたらどうしよう、と本気で思っていた。
誇張でもなんでもなく、運転しながらニーサンのあらゆることがおそろしくてハンドルを握りしめて泣いていた。
三重県に引っ越してからしばらくは車のことを「走る棺桶」と呼んでいたし、少し長い距離や夜間に運転するときなんかには実家のおばあちゃんが唱えていた念仏を思い出してはぶつぶつと繰り返していた。
夫はさぞかし気味が悪かったことだろう。
でも、そのくらい車を運転することが、ニーサンを走ることが恐ろしかったのだ。

後世に残すべきニーサンの魅力

さて、こちらに住んではや10年。
言うまでもなくニーサンの運転に、もはやなんの初々しさもない。
慣れてしまえば見通しがよくとても走りやすい道路だし、やはり大動脈だけあってどこへ行くにも避けては通れないアクセスのよさを兼ね備えている。
ニーサンなしに三重県は語れない。

三重県に住んで丸1年ほどたった頃だろうか。
ふとあることに気が付いた。
ニーサンを走っていると、目の前に空があるのだ。
あれは伊勢から松阪方面に向かって走っていた時だったと思う。
まっすぐ長く続く道の先には空があった。
周囲に高い建物やビルがなく、どこまでも伸びるようなこの道は空に続くように見えるのだな、となんだかとても遥かな気持ちになったのだ。
京都でも、その前に住んでいた大阪でも、前を見ればあるのは建物か壁で、空というのは真上にしかなかった。空を見るには上を向く、そういうものだと思っていた。
信号と後続車とアクセルとブレーキのことしか考えられなかった初心者マークの頃には気づけなかった景色がそこにはあった。
はじめて三重県が好きだと思えた瞬間だった。
ニーサンを走ると、雲が低い日には手が届きそうなほど近くに雲があるし、盛夏には吸い込まれるほどの濃い青がそこにある。
冬の夜にはフロントガラスに満天の星が光っている。
そういえば信じられないくらい大きな流れ星を見たこともあったっけ。

目的地へ運びながら、365日いろんな顔を見せてくれる23号線。
一時は大嫌いだと思ってごめん。走りたくないと泣いてごめんね。
機能をはるかに超えるロマンチックとドラマチックがニーサンの存在意義だって今は全力で思ってるよ。

 

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