突然だが時は遡り2017年12月。
毎年参加している大学の忘年会兼同窓会で聞き捨てならぬ言葉を耳にした。
「hiromiさん(筆者)は確か松阪市出身ですよね?僕、松浦武四郎が好きなんですよ〜!」
その言葉を発したのは松阪にも三重にも何の所縁も無い人。そんな方から出た地元の偉人の名に思わず誘ってしまった。
「実は私、ウェブマガジンの記者もやってるんですけど、もし良かったら一緒に取材に行きませんか?」と。
* * *
かの言葉を発したのはこちらの方。京都造形芸術大学通信教育部空間演出デザインコースの川合健太先生、筆者の恩師でもある。
元は芸術大学建築学科を卒業し、様々なプロジェクトを経験したのちに大学教員として勤務している。現在は東京キャンパス担当のため都内在住、滋賀県大津市出身ということで三重の隣県で生まれ育ったものの、今までなかなか松阪を訪問する機会が無かったという。
半年と少し時間を経て、実現した来県。京都から東京までの帰路の途中、JRを利用して亀山経由で津駅に来るという渋いコースで三重に立ち寄っていただいた。駅から松浦武四郎記念館に向かう車中で興味を持ったキッカケを伺うと、更に驚きが。
「松浦武四郎と僕は、どこか似ているような気がするんですよねぇ。」
私の頭の中では「?」が飛び交う。
経緯はこうだ。
東京・三鷹にある国際基督教大学を訪問した時のこと。敷地内に現存している武四郎の終の住処である「一畳敷」を拝観する機会を得た。
その時に馳せた、武四郎の生涯の追体験は鮮明に今でも蘇るという。
石の収集をライフワークとする川合先生は、武四郎が北は宮城、南は宮崎から取り寄せた材料でその小さな書斎をこしらえた事実を、自らの行動に重ね合わせ親近感を覚えているというのだ。
到着した松浦武四郎記念館。正直なところ筆者は先に述べた通り元同市民であるが、来館したのは1度だけ。しかも研修で訪れたので自発的に来たわけではない。
反面、車から降りた川合先生からは聖地に足を踏み入れる高揚感が伝わってくる。
その熱を感じ、武四郎が気になり始めている自分。全ての日程が終わった頃には武四郎に熱視線を送っているのだろうか。
入館すると館長の中野恭(たかし)さんが対応してくださり、案内いただく。
早々に足元を見ると広がるのは大きな北海道の地図。武四郎が描いた「東西蝦夷山川地理取調図」がほぼ実寸で展示されている。
「地図作りといえば伊能忠敬や間宮林蔵。彼らは測量のプロで専門の道具等も使っていました。でも武四郎はそうではなかった。歩測で北海道内の各地を記録していきました。
伊能忠敬は外側を型どり、武四郎がその中を埋めた、と言えますね」
川や土地の名前、更には山の形状まで克明に記されているそれを見て感嘆のため息。
「武四郎はケバ法というドイツの表記方法で地図を描き上げました。伊能は絵図だったのに対し、新しい手法を試みていたんですね」
と解説は続く。
「実は武四郎は北海道だけではなく、全国を旅しました。江戸や京都、大阪、長崎、唐(当時の中国)から天竺(同インド)まで旅をするかもしれないと語ったようですから」
等身大の武四郎像を前に説明に聞き入る川合先生。生きる時代は違えど確かにこの2人、共通点はありそうだと第三者目線で感じ始める。
フットワークの軽さはまさしく、興味のあるテーマを深く探求する姿が重なる。
二人の身長差はあれど。
重要文化財の展示は一度に最長2ヶ月のため、年に6回展示替えが行われる。
訪れた時期には「描かれたアイヌ民族」をテーマに、武四郎と当時の他の絵を比べられる展示が開催されていた。
川合先生がまず着目したのはすごろく。「武四郎もの」という呼び名で江戸の庶民に人気を博したそれは、遊びながらアイヌを伝承するという知識欲掻き立てられる玩具。
また、かの旅の達人が描いた掛け軸の側には語った言葉もキャプションとして並ぶ。武四郎の性格が現れる彩ある言葉は人との交流、知見が無ければ思いつかない言葉の組み合わせ。
生きてきた足跡が見える言葉を使い、人と人を繋ぐ道具を作ったかの偉人。川合先生は武四郎は空間演出デザインに長けた人に違いないと確信した。
「生誕地も見学されますか?」という中野館長からのお声がけに更に目が輝く川合先生。記念館から徒歩10分もかからない聖地へと赴く。
道中も川合先生と中野館長の会話は止まない。「武四郎は篆刻家として旅先の生計を立てていたんです」と話す中野館長、そして一行の目先に現れたのは小野江小学校横にある壁画。
実は中野館長は以前ここの校長をされていて、聖地で育つ子どもたちの様子についても語っていただいた。
「児童らは6年間じっくりと武四郎について学びます。どこに出ても武四郎が持っていた情熱で彼ら、彼女らの人生の苦難を乗り越えられるよう教育していくんですね」
誇らしく語る館長に耳を傾け、地区の子どもたちが大きくなった姿を皆で想像する。
そうしている間に生誕地に到着。実は武四郎の家系は豊かで、大きなお宅の出身。しかし、だからこそ旅に出られたともいえる。前の道は数多の人々が往来する参宮街道。武四郎13歳の時、文政のおかげ参りのために旅人の往来が忙しなく続いた日々。
「この地じゃなかったらそうならないですよね。外を覗けばたくさんの人。どこから来たのか気になるに違いないですから。海を見て水平線の向こうに想いを馳せるように」
と推察する川合先生の言葉に格子窓の奥から投げられた視線をなんとなく、感じた。
生誕地からごく近い真覚寺は寺子屋が開かれていた場所。
3m程の高さのある屋根の上から飛び降りて遊んでいたという武四郎。子どもの頃の身体能力の高さは後の探索に役立ったに違いない。
居ないはずの偉人、しかし自分たちと変わらずそこで生きていた気配を感じ息を飲み込む。確かにその偉人は居て、そこに暮らしていたと確信できた。
* * *
2時間強という僅かな滞在時間、しかし
「武四郎について知らなかった事実に触れられたのも良かったですが、それ以上に中野館長や地元の皆さんの武四郎愛が素晴らしいと感じましたね!」
と、晴れやかな表情で語った川合先生。
牛蒡の俳号で俳句コーディネーターとして活動されているため、最後に一句詠んでいただいた。
天高し伊勢街道発つ武四郎 牛蒡
思い出を切り取って一畳敷を作り上げた武四郎と、武四郎へ想いを馳せた初秋を切り取った川合先生。
これからも時と場所を越えた長い対話は続く。
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自然の力に寄り添い生きるアイヌの人たちを尊敬し、文化を伝え続けた武四郎。
大きな力から恩恵を受け、時に試練を与えられたのは今も昔もきっと変わらない。
魂は草葉の陰から先刻の地震の傷跡が癒えるよう、祈りを送っているに違いない。
新たな土地、そして自らの人生までも積極的に切り開き、地元の民たちと固い信頼関係を結んだのだから。
こんなに北海道の動きが気になる昨今、北の大地を愛した人の影をより深く追って旅してみるタイミングは今なのかもしれない、と感じた時間だった。
hiromi。OTONAMIE公式記者。三重の結構な田舎生まれ、三重で一番都会辺りで勤務中。デンマークに滞在していた事があるため北欧情報を与えてやるとややテンションが上がり気味になる美術の先生/フリーのデザイナー。得意ジャンルは田舎・グルメ・国際交流・アート・クラフト・デザイン・教育。