最近食べた「美味しいもの」を思い出してみる。
それは伊勢神宮の土産屋で衝動買いした赤福かもしれない。
あるいは仕事帰りにコンビニで買ったショートケーキ。
いや、冷房を求め赴いたCAFEで巡り合った、運命の玉子サンド。
人間が美味しいと感じるために重要なのは、
必ずしも”味”だけではない。
たとえば偶然性だったり、
もしくは非日常性だったり。
その食べ物と「どのように」出会うかによって、
僕らの舌の感じ方は変化する。
さて、私事で恐縮だが、
僕は数ヶ月前に神奈川のシティから三重の漁村に引っ越した。
そして、出会ってしまったのだ。
本当に「美味しい」ものに。
ペヤングの大盛り焼きそばを愛してやまず、
野菜ジュースを飲んで健康意識を保っていた若者が、
自分で炒めた獅子唐に感動する物語。
コンビニでは買えない”味”があることを、
さてあなたは信じられるだろうか。
週に一度だけ開かれる朝市に行った。
土曜日の早朝6時。
野菜を手に入れるために僕は、
朝市へと赴いた。
僕が住む漁村では昔、農山村に魚を運び、
代わりに野菜をもらってくる風習があった。
スーパーやコンビニが普及して、
そんな煩わしい物々交換をしている人はいなくなったが、
いまなおこの集落では週に一度、
農山村から野菜を持ってきた人々が朝市を開いている。
僕が着いた頃には、すでにたくさんの主婦の姿があった。
軽トラから野菜をおろす間もなく、
荷台に積んである野菜に人が群がり、あっという間に各々のカゴの中に詰め込まれていく。
玉ねぎ・ナス・トマト……。
こんなにたくさんの人が集まり、
野菜が運ばれてくるのに、
僕が欲しい野菜は僕のところに全然来ない。
「兄ちゃん、ええ野菜とれたかい」
両腕いっぱいに野菜を抱えたおばあちゃんに話しかけられ、
僕は手汗で滲んだ空っぽの手のひらをギュッと握りしめる。
大盛況の朝市は、あっという間に幕を閉じた。
究極の手口。野菜をフライングゲットする方法。
「あんた、友栄(※)さんとこの若い子か」
(※僕が働いている会社の名前)
朝市を主催する木戸秀作さんが話しかけてきてくれた。
彼は7年前に役場を退職し、
実家の畑を耕し始めた。
実家がイチゴハウスしとったもんで、
役場におる時も仕事の合間に手伝っとって。
ある程度野菜を作る知識があったで、今やっとることも別に苦にならん。
いま木戸さんが開く朝市は、
彼が母親から引き継いだものである。
漁場やもんで、ここは野菜があんまりあらへんやろ。
僕が住む漁村の他にも、
方座浦の漁村にも野菜を運んでいる。
農村と漁村が手を取り合えば、
たいていの食材は揃う。
僕はダメ元で木戸さんに、
お目当のトマトが余っていないか聞いてみた。
そして衝撃的な事実を知った。
トマトは事前注文で売り切れる。
事前注文。
そんなフライングゲット。
ずるい。
ちくしょー!
僕は心の中で叫んだ。
朝市の野菜が作られる畑に行った。
ふるさと交流サロン・めっちゃの看板が目印。
川沿いを右に曲がっていくと、
木戸さんが住む集落が姿を現わす。
ここは南伊勢町・東宮。
東宮川を中心とした農山村集落が広がる。
合併して南伊勢町になる前は南島町っていう町やったんやけど、
以前この辺で東宮は、南島のデンマークって言われとって。
南島のデンマーク。
このニックネームの由来は、牛を飼っている農家が非常に多かったからだそう。
川沿いには、昔大規模に酪農を営んでいた牛舎が残っている。
木戸さん自身、5.6頭の乳牛を育てていた。
イチゴの生産も盛んに行われていた。
イチゴハウスがずらりと並ぶ光景も加味して、
まるでデンマークにいるようだと、
きっとデンマークを旅した誰かが言い出したのだろう。
農業の集落として栄えた東宮。
いま、専業農家はひとつもない。
牛もいなくなった。
人がおらんくなって、
イチゴ農家も高齢化で辞めてって。残っとるんは田んぼだけ。
あとはばあちゃんじいちゃんが野菜作って、朝市に出しているくらい。
年をとり身体が思うように動かなくなった農家たち。
木戸さんは彼らの田んぼの田植えや稲刈りを手伝うことにしている。
こんだけの土地を守ってかなあかん。
草だらけにするわけにもいかんし。
故郷の東宮を想う気持ちは、
木戸さんが野菜を作る原動力なのかもしれない。
季節の野菜を届ける仕事。
それにしても畑はおもしろい。
黄金の卵を産むガチョウとまでは言わないが、
土から食べ物が次々と出てくるものだから、
まるで魔法の世界に浸っているような気分になる。
しかし野菜を育てるのは、
魔法が使えない「マグル」の木戸さんで、
杖を振るだけで野菜が育つわけもなく、
汗水流して働く人々の努力が果実を実らせる。
畑の野菜を案内してもらうなかで、
朝市ならではのエピソードを聞くことができた。
漁村の人らは、ないもんを言うてくる。
朝一をスーパーやと思って、シーズンじゃないものをね。
シーズンじゃない野菜。
そのことについて、
僕は木戸さんに詳らかな説明を求めなければならなかった。
たとえば6月頃に「生姜」言うてくるもんで。
僕らの生姜は8月の中旬に始まるんさ。
でも、スーパーに年中並んどるやろ。
スーパーっていうのはどっからでも品物仕入れてくるやんか。
せやで言うのは、「今でとるんは高知のハウス栽培の生姜が出回ってるんさ」って。
朝市に出荷される野菜は、
東宮の土地がその時期に作れる野菜に限られる。
僕は思う。
品揃えはスーパーにかなわなくても、
朝市には食卓に季節を届ける力がある。
田んぼがあるから米が食べられる。
畑があるから野菜が食べられる。
土地の風景と食卓がセットで届く。
だから僕は、朝市が好きだ。
東宮川の源流に行く。
東宮川に水が流れていないことに気づいた。
「水がない川」の意味を木戸さんに尋ねると、
当たり前のように衝撃的なことを言ってきた。
大雨が降ったときしか、川から水がでえへんで。
あなたが水道水文化で育ったとしたら、
この言葉の意味を理解するのは大変だろう。
地上に降り注がれた雨水は、
土に浸透して土壌を潤す。
それらの地下水は湧き水として湧き出たり、
井戸水として組み上げられることによって、
人々の暮らしに水を供給する。
土地が吸収しきれない量の雨が降ったとき、
地上に水が流れる。
僕らはそれを、川と呼んでいるのだ。
伊勢の宮川のように川が長いと、雨水を貯蓄できる。
しかし東宮川のように川の始まりから海までの距離が近いと、普段は水が流れない。
下流にくると地上に流れるだけの水がないで、途中で地下に浸透してく。
川の上流に行くと、水があるで。
僕は東宮川の水に出会うために、
川の上流を目指すことにした。
東宮の集落の始まりは、水。
そこはとても神聖な場所だった。
鳥居をくぐった先には、滝が流れていた。
水に触ると、ひやりとして冷たい。
一日中ここにいられたらいいのにな。
胸いっぱいのマイナスイオンを吸い込んで、僕はそんなことを考えていた。
稲作をしようとすると、水がなけりゃできひん。
せやで、コメが作れる水のある場所に人は集まる。
この滝は東宮の源。
これがなかったら、東宮はないよ。
水がなかったらな。
仕事がある場所に人が集まり、都会は作られる。
一方で水がある場所に人が集まり、集落は作られる。
前はこの滝、もっと深かったんや。
これが土砂で埋まってしもうた。
僕らが小学中学生くらいの時は、
向こうの岩の上から飛び込みおったのにな。
水が減ってきている。
それがなぜかを知り始めると、
自然と人間の関わりについて、深い思考の渦に呑まれるだろう。
東宮と水、人々の暮らしの営み。
水はとても貴重なものだ。
野菜の”味”には物語がある。
木戸さんから頂いた獅子唐を炒める。
醤油に刻んだ生姜を混ぜて、
炒めた獅子唐にかけていただく。
ほんのりとした辛さを味わいながら、
僕は東宮の景色と、木戸さんから聞いた話を思い出している。
僕はこの野菜を作っている人と、
この野菜を生み出す土地について知っている。
そのことに思いを馳せて食べる食卓の”味”は、
なににも代えがたいスパイスになる。
コンビニでは買えない味。
食卓を豊かにする秘密が、朝市にはある。
”いま”食べられる旬の野菜の’味’を求めて、
僕はこれからも朝市に行く。
シティーボーイを捨てて、神奈川県から三重県南伊勢の漁村に引っ越しました。職業は新卒漁師。