三重県総合博物館(MieMu)にて、第33回企画展『親鸞と高田本山 専修寺(せんじゅじ) 国宝からひろがる世界』が開催中だ。
今年令和5年は親鸞聖人の生誕850年の年にあたり、それを記念して『高田本山』所蔵の国宝や重要文化財が一堂に展示されているのだ。
高田本山 専修寺(せんじゅじ)
ところで県外出身の私にとって『高田本山』ってなに?
という疑問があり、まずは津市にある『高田本山 専修寺』に行ってみた。
東京ドーム約2個分といわれる広い境内には、三重県内で初めて国宝建造物に指定(2017年)された御影堂や如来堂、さらには11棟の重要文化財が建ち並び、荘厳そのもの。
日光東照宮などを手がけた匠集団が6年がかりで完成させたという御影堂や如来堂には、精緻な彫刻や格子状の天井などあちらこちらに意匠が凝らされており、歴史の深さを感じさせられる。
参拝する方の中には若い子たちの姿も!?
『高田本山』は、現在上映中の映画「わたしの幸せな結婚」や「レジェンド&バタフライ(2023年)」、「浅田家!(2020年)」などのロケ地としても有名になりつつあるようだ。御影堂や大玄関、雲幽園などが撮影に使われており、三重県挙げてのPRに『高田本山』も一役買っているという。
事前に『高田本山』へ参拝したおかげで、国宝建造物の素晴らしさが実感できた。が、親鸞聖人についてはなにもわからないまま…三重県総合博物館(MieMu)へ歩を進めた。
第33回企画展 開会式セレモニー
三重県総合博物館(MieMu)向かいの三重県総合文化センターに到着してやっと気分が晴れやかになった♪
青空に泳ぐ無数の鯉のぼりとツツジが出迎えてくれたのだ。ちょうど2年前、第28回企画展「やっぱり石が好き!」で訪れた時が思い起こされる。
いざ!開会のセレモニーでは、この時を待っていたとばかりに、宝物の公開を心待ちにされていた真宗高田派の約80名もの関係者が駆けつけて来られた。
まずはじめに、一見知事が津市を映画の「聖地に」という抱負を述べられ、それとともに、「今年5月にリニューアルする宝物館」について言及された後、
真宗高田派 法主の常磐井(ときわい)慈祥(じしょう)さんからの挨拶では、「これからは三重県の名所のひとつに専修寺が挙げられる様、県やMieMuとタッグを組んで全国に発信していきたい」と意気込みを話された。
また、三重県総合博物館(MieMu)は来年開館10周年を迎え、三重県の歴史、文化の発信力を高める絶好の機会となるため、今後も文化財の調査研究にさらに努めていくという。
天下人と真宗高田派との関係
そんな中、様々な疑問が浮かぶ…
・三重県と浄土真宗との関係は?
・展示されている「専修寺文書」の中には織田信長の書もあるが、お寺や僧侶と織田信長って敵対関係だったのでは?
中学の歴史の授業で止まったままの私の頭の中は混乱したまま…
今回の展示の目玉!初めての試みの一つが、公開される「重要文化財 専修寺文書」の数の多さだという。
その「専修寺文書」の中に、織田信長などの天下人から送られた書状が含まれているのだ。
こちらの朱印状は、日下に有名な「天下布武」の馬蹄形朱印が押されていることから織田信長の禁制であることがわかるという。
日付が天正元年(1573年)10月となっているが、この年の8月に越前の朝倉氏と近江の浅井氏を滅ぼした信長は、翌9月には伊勢長島の一向一揆を攻撃しており、こうした軍事活動にともなってこの禁制が発せられたという。
折しも織田家と本願寺が敵対関係にあることから、専修寺が本願寺とは一線を画し、信長の庇護下にあったことを示しているという。(企画展 関連資料より)
他にも、豊臣秀吉や徳川家康などの天下人からの文書、伊勢をおさめていた北畠具教の養子となった信長の子息、信雄(のぶかつ)からの文書など、次々と戦国武将の文書が湧き出る「専修寺文書」は、歴史好きの方にとっては戦国武将の人となりを知る貴重な資料となっていることは間違いない!
以上、どの「専修寺文書」からも、戦火の際には武士達に「境内で狼藉をはたらいてはならぬ」という禁制を出してもらえるほど、天下人たちから庇護されている『高田本山』の立ち場が明らかだ。
また、秀吉に至っては『専修寺』に350石を寄付する朱印状も残されているのだ(展示No.83)。
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
の句にもあるような残虐非道で、比叡山延暦寺焼き討ちのような宗教嫌いの信長像を植え付けられてきた私にとって、これらの展示はかなり意外なものであった。
さらには、「専修寺文書」には天皇からの文書などもあり、格式の高さがうかがえる。
親鸞像に迫る
次に紹介する文書「観阿弥陀経集註」は、親鸞が京都吉水にいた時代にしたためた文書を曾孫である本願寺覚如の長子存覚(玄孫)が原本を忠実に書写したものである。親鸞の自筆の原本(国宝)は西本願寺に残されているという。
親鸞は29歳のとき、それまで20年間の比叡山での修行をやめ、京都吉水の法然門下に参入しており、この文書はその頃のものである。中央へお経を書写し、天地や行間、紙背になどあらゆる余白に、経文に対応する注釈を細字で加えており、若き日の親鸞のきびしい研鑽の様子がうかがえる貴重な資料だという。さらに、本文には朱で区切り点や読誦のための声点(しょうてん)が付けられており、何度も読み返し、研究していた様子がうかがえる。
一方、親鸞80代のときに自らが執筆した「西方指南抄(国宝)」は法然の教えなどが書かれた文書である。
晩年になって法然との日々を思い起こしながら執筆されているのだが、親鸞の生き方そのものを変えた法然からの法話がこの「西方指南抄(国宝)」におさめられているという。師匠と門弟が向かい合って学ぶ姿が垣間見える気がするのは私だけではないはずである。
そんな中、師弟関係の至福の時間に終止符を打つ突然勃発した大事件が「承元の法難」である。法然たちの一門は、比叡山をはじめとした既存仏教界と朝廷から、専修念仏を禁止され、師と共に僧籍をはく奪された上、法然は讃岐国へ、親鸞は越後国へと流罪となってしまうのだ。
無実の罪で引き裂かれたからこそ、より一層、人生の終止符を打とうとするその時になっても師への思い、師からの大切な法話を書き記す一途で純粋な親鸞の姿がうかがえる。
また、60歳過ぎに生まれ故郷の京都に戻った親鸞だが、関東に遺した門弟にわかりやすく教えを歌にした「三帖和讃(国宝)」も、師弟関係を大切にした親鸞の人となりがわかる貴重な資料といえよう。遠くにいる門弟たちに教えをわかりやすく説くために、心を尽くした親鸞の様子をそのままに今に伝える至宝となっているという。
離れた関東の門弟の間には様々な疑問が起こり、動揺が走ることも多々あったという。親鸞はこうした行動を是正するために、心を尽くして門弟に様々な教えを伝えたに違いない。
常に人々の側にいて、もがき苦しみながら阿弥陀仏を信じることにかけた親鸞の生涯は90歳をもって幕を閉じた。
果たして、親鸞聖人の素顔に迫れたのだろうか!?
親鸞については、知れば知るほどさらなる謎が浮かび上がり、あらたな謎が深まるばかりである。
また、天下人と高田本山との関連性、三重県との関わりについてもまだわからないことばかりだ。しかし、850年前から人々を引き付けてやまない、いまもなお続くドラマの一部を垣間見ることができた。
教科書で学んだつもりでいた知識や、スマホで検索してわかった気になっていた解説も、本当の姿からはほど遠く、実際に足を運んだからこそ、親鸞の思いそのものに触れ、歴史を肌で感じ、自分の視野を広げることができた。
6月末から7月にかけて見ごろを迎える『高田本山』の蓮の花は、その数35種100株以上あり、境内をやさしく彩るという。次は、初夏の季節に蓮の花が彩る『高田本山』に足を運びたい。足を運ぶたびに親鸞像が鮮明に色濃くなって目の前に現れ、生きる指標となり導いてくれくるだろう。
三重県総合博物館 第33回企画展
『親鸞と高田本山
専修寺 国宝からひろがる世界』
開催期間 令和5年4月22日(土)~6月18日(日)
開催時間 9時~17時(最終入場 16時半)
休館日 毎週月曜日
※期間中に展示替えを行います。
詳しくは三重県総合博物館HPでご確認ください。→https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/p0031300084.htm
会場 三重県総合博物館3階 企画展示室
住所 三重県津市一身田上津部田3060
観覧料 【企画展のみ】一般 800円 学生 480円 高校生以下無料
【基本展示室とのセット券】
一般 1,050円 学生 630円 高校生以下無料
展示資料点数 102件222点
TEL 059-228-2283
アクセスはこちらをご参照ください
富山県出身。結婚を機に東京へ、名古屋を経て、その後、子どもの小学校入学を機に、三重県いなべ市に落ち着きました。昼寝が趣味!ぐうたら主婦です。得意ジャンル:イベント