夫婦そろって、縁もゆかりもないこの場所に家を建てたのは、立地云々いろいろあるけれど、何より「景色がきれい」それがいちばんだった。
志摩の田舎育ちの夫が持つ、住まいの理想はとても高く、不動産屋さんで門前払いをくらうほどだった。
田舎の家は敷地が広いのが相場だし、また、家同士の間隔もうんと広い。夫の実家を訪れても、右隣にはかろうじて家がいくつか連なってはいるけれど、お向かいには空き地しかないし、裏も左隣も、はるか向こうに家が見える。家と家の間を埋めるのは、主に田んぼ。
そんな夫が家を持つことを実際に考えたときに、分譲団地はとうてい考えられなかったらしい。
分譲団地には分譲団地の良さがある、と何度も説いたし、彼も納得しているようではあったのだけど、いかんせん彼の中にある「家」というイメージが完全に志摩の実家のそれだったものだから、とうとう踏み切ることができなかった。
ちなみに私は、どちらかというと街の育ちで、例えば田んぼとか、例えば野の花とか、例えばカエルや虫とか、そういうものとほとんど無縁で育っている。
もちろん、カエルのかんぴんたんなんて、見たこともなかった。
さて、夫の理想は田舎のような広々とした土地、というだけでは済まなかった。
「職場が遠いのは嫌」
分からいでもない。彼の朝はとても早い。
「県外に出ることも多いからICは近くにほしい」
私の実家が県外でもあるし、ね。うん、まあ、気持ちはわかる。
「目の前は田んぼがいい」
田んぼ!!?!!
もちろん我が家にも予算というものがある。
ここにお値段の都合が加われば、門前払いをくらうのは当然だろう。
職場やICから遠く離れないで、田舎のような広々とした、しかも目の前に田んぼがある土地をお手ごろ価格で手に入れようとするなんて、無理難題にもほどがある。
そんな桃源郷みたいな夫の理想に付き合っていたら、気づけば3年が経っていた。ハムスターなら天寿をまっとうしている。
*
この人と暮らしていたら、マイホームなんて永遠に無理なんではないかしら、と思っていた、ある日だった。
夫が、インターネットで見つけた物件があるというので、見に行くことになった。
夫の職場のあたりから、街中を走って、スーパーやコンビニを通り過ぎた。
どこにでもある、普通の街だった。
ところが、目的地付近に差し掛かると、急に緑が増え、道なりにはうっそうとした竹林が茂っていた。なぜだかわからないけれど、竹林に沿ってゆるくカーブした道を進みながら、もう、「ここに住みたい」と思っていた。
竹林を抜けた先をひとつ曲がると、田んぼが広がっていて、その田んぼの真向かいにその土地はあった。
その土地に立って前をみると、広々とした田んぼと、それを囲むように青々とした竹林が茂り、のどかで開放的だった。
自分が生まれ育った街とはぜんぜん風情が違っていたけれど、だからこそ、ここで暮らしてみたい、と思った。
*
今の暮らしはとても気に入っている。
ご近所の人たちはよく、「こんな田舎によくもまぁ」と言うけれど、街に出るのも車があればすぐだし、なにより、こののんびりした空気と「田舎」なところが好きなのだ。
少々賑やかすぎるほどの鳥の声で目を覚まして、夜は今の時期なら虫の声やカエルの声が響く。
子どもたちとお散歩をすれば、そこかしこで畑を耕すおじいちゃんやおばあちゃんがいて、声をかけてくれる。
雨が降ったあと日が照ると、草がぐんと伸びることや、夜の暗さにも月の満ち欠けで違いがあることを、私はここで暮らすまで知らなかった。
今回の自粛生活が始まって、学校も幼稚園も休校休園になって、目を向ける場所と言ったら、ご近所くらいしかない。つい便利な方に流れてしまうものでもあって、それまでは、休日には車を走らせて、イオンだとか、みえむだとか、いわゆる刺激を求めて出かけることが多かった。
いつもの公園にすっかり飽きてしまった子どもたちと、ご近所をひたすら巡る日々。
歩いたことのない道を制覇するつもりで、どんどん歩いた。あぜ道も、農道も、ざくざく歩いた。
新緑の季節だったから、緑が目に鮮やかで、そこかしこで花が咲いていて、竹林を覗けばかわいらしいタケノコがにょきっと顔を出していた。
子どもたちは花を摘んだり、水が張られた田んぼをのぞき込んだり、野っ原に出ればくるんと側転をしてみたり、農道をけらけら笑いながらどこまでも走ったりしていた。
竹林の中から「タケノコ掘ってけ!」と声をかけられた、なんてこともあった。
もう、ここに住んで5回目の春だというのに、まだまだ知らない景色が、知らない道がたくさんあって、うんと新鮮だった。タケノコを掘るなんてのも、初めてのことだった。
暮らし始めてからずっと、ここでの暮らしをとっても気に入っていたけれど、ご近所をしらみつぶしに散策した5月、ここでの暮らしがいっそう大切になった。
街での暮らしも田舎での暮らしも、どちらも好きだけれど、今の私はここでの暮らしが、なんだかとっても好きみたい。
そんなことを思った5月。
8歳、6歳、4歳の3児の母です。ライターをしています。