松阪牛で有名な松阪市と、伊勢神宮が名を馳せる伊勢市の間に、小さな、ほんとうに小さな町がある。
「明和町」という。
周辺の松阪市や伊勢市に比べたら、全国的にはそんなに知名度はないかもしれない。
地図で見ると、総面積は驚くほど小さいし、人口はわずか2.3万人だ。
その町が飛鳥時代から続く壮大なロマンを抱えていることを、いったいどれだけの人が知っているだろう。
明和町にある「斎宮駅」を降りると、飛び込んでくる「斎宮(さいくう)」の文字。
かつてこの地にあった「幻の宮」と呼ばれたところが斎宮だ。
飛鳥時代から南北朝時代にかけておよそ660年もの間、この地には都で選ばれた「斎王」が天皇の代わりとして伊勢神宮に仕えるために暮らしていた。そして、斎王が暮らすためにつくられた場所が、「斎宮」だった。
駅から徒歩10分のところに、斎宮歴史博物館がある。
この歴史博物館、史跡の上に建っていて、建物の下には竪穴住居が、敷地内には古墳がある。もちろん、遺跡を保存してその上に建っている博物館は日本でも珍しい。
この斎宮歴史博物館で少し斎王と斎宮についてお勉強してきました。
それではどうぞ。
そもそも「斎王」ってなに
まず、斎王という呼び方は男性を思わせるけれど、斎王は未婚の女性。
その時の天皇の娘か妹などから選ばれた。
現代で言う、小学校高学年から、中学生の女の子が多かったという。
その年齢には大きな幅がある。
最高年齢29歳、最低年齢はショッキングなことに2歳と言われている。
斎王は任命された場合、親元を離れ、都から、この三重県、現・明和町へやって来たのだ。
もちろん車も電車もない時代だから、移動手段はいわゆるおみこしみたいな籠みたいなあれ(葱華輦)。
険しい山を越えて、ようやくたどり着く、五泊六日の斎王群行だ。そして、いったん就任すると、天皇が崩御(亡くなる)または次の天皇が即位するまで、都に帰ることはできなかった。
つまり、斎王に選ばれた場合、幼い斎王が次に親に会えるのは、いつになるのか分からない、というということ。
幼い女の子には過酷な運命だ。
さて、その斎王が、斎宮に馳せ参じて、なにをしていたのか、学芸員さんに聞いた。
学芸員さん 「雅な生活を送っていました」
雅な生活…とは。
学芸員さん 「祈りを捧げたり、歌を詠んだり、貝合わせをしたり、音楽を嗜んだり、ですね」
雅だった。
学芸員さん 「年に三回、月次祭と神嘗祭の際に神宮へ赴いていました」
天皇の代理となり、伊勢神宮に仕える存在として、斎宮で暮らしていた斎王。
遠く都を離れて、国の安寧(あんねい)を祈るという大きな責務を果たすにはどれだけの覚悟が必要だっただろう。少女らしい雅な暮らしの中に、少しでも安息の時間があったと思いたい。
斎宮には100棟以上の建物が建ち、500人以上の人が勤めていて、全国からたくさんの食べ物が納められていたそうだ。
都からはるか離れた場所に、こんなに栄えた場所があったことは、現在、残念なことにあまり知られていない。
因みにこの明和町は、伊勢神宮内宮から15kmくらいのところにある。
なぜ、そんな神宮から離れた町が、斎王の住む場所になったのか、実はまだ明らかになっていない。諸説ある中で、キーワードになるのが祓川(はらいがわ)だ。
明和町を流れる祓川が、当時、俗世と聖なる地の境目と考えられていたようで、その祓川のそばに天皇の力を象徴するものを置いたのでは、という説があるそうだ。
当時の人々にとって、人間の世界から神の世界への入り口が、この明和町だったのかもしれない。
守られてきた「幻の宮」
斎王を語る上で、避けることができない大切な場所がある。
斎宮駅近くにある「竹神社」だ。
斎王が仕えた660年間の間に、斎宮は少しずつ場所を移動してきた。
斎王と斎宮が最も華やかできらびやかだった平安時代に、斎王の御殿があったとされる場所が、現在の竹神社。
斎王の歴史は天皇の権力の衰退とともに、幕を閉じる。
いつの間にか、人々の間で斎王の存在は薄れ、斎宮は記憶のかなたに追いやられてしまった。そして、いつしか斎宮はこう呼ばれるようになった。
「幻の宮」
それでも、近隣の人々はこの一帯を「斎王の森」と呼び、神聖な場所として大切に守り続けてきた。戦後の食糧難のときでさえ、ここを田畑にすることをかたくなに拒んだという。
この竹神社は、斎宮があったとされる一帯に点在していた、いくつかの神社を集めてできたのだとか。
そのせいか小さな社だけれど、神社に一歩足を踏み入れると包み込むような大きさを感じる。
都を離れて国の平安を祈り続けた斎王の決意と覚悟、そしてこの地を守り続けていた人々の想いが宿っているのかもしれない。
例えば、進学であるとか、就職であるとか、そんな折にふと訪れてみるのはどうだろう。
天皇の代わりという大きな責務を背負い、決意を胸にこの地に訪れた斎王が、新たな誓いに力を貸してくれるような気がしないだろうか。
また、この竹神社が建っている場所は伊勢街道と呼ばれ、江戸時代に伊勢神宮へ向かう道として栄えた道。
伊勢参りに向かう人たちに喜ばれたもののひとつに擬革紙(ぎかくし)がある。
擬革紙とは、紙を加工して、まるで革のように仕立てたもの。
明和観光商社のひとりが擬革紙でつくられた名刺入れを持っていたので、見せてもらった。
手触りは紙とは思えないしっかりとしたもの。
限りなく革に近い。
今ではなかなか手に入れることが叶わないのだけれど、この技術を繋ごうという努力が続けられている。
いつきのみや歴史体験館で、平安時代にタイムスリップ
竹神社を出て、斎宮駅の方へ戻ると、斎宮駅のすぐそばに、平安時代を思わせる大きな建物が建っている。
「いつきのみや歴史体験館」では平安時代の遊びを体験したり、十二単を着ることができる。
斎宮歴史博物館、竹神社を巡った後、ぜひ寄ってみてほしい。
平安朝の気分を味わうことができる。
せっかくなので、取材に同行してくれた三重大学の学生さんに着てもらった。
学生さん「博物館でいろいろ見た後ということもあって、ほんとうにタイムスリップしたみたいな気分でした」
うっとりとした表情で話してくれた。
とっても雅でため息が出てしまうほど。
いつきのみや歴史体験館ではBGMに雅楽が流れている。体験館の雰囲気と、音楽、そして、十二単をまとったら気分は完全に斎王。すてき…。
因みに、十二単というのは実際に12枚の着物を着ていたということではなく、当時の人たちは20枚以上着ることもあった。その色の組み合わせに、季節感やそれぞれのセンスを詰め込んでいたとか。
いつの時代もおしゃれと我慢は隣り合わせという真理。
建物を出て、東に200mほど復元道路を歩いていくと、当時を再現した建物が三棟建っている。
無料貸し出しのタブレット端末を使うと、繁栄していた斎宮の当時の様子が映る。
すごいな明和町。いけてる。
幻の宮に思いを馳せる
最後に、いつきのみや地域交流センターに立ち寄らせてもらった。
二階に上がると、竹神社、いつきのみや歴史体験館、復元建物、斎宮駅が一望できる。
ここから見える景色こそ、かつて斎宮が華やぎ、栄えていた場所だ。
斎宮の歴史を知ってから見ると、それまで気にも留めなかった、のどかな景色が急に色彩と立体感を伴ってくる。
都を離れ、ここで祈りを捧げていた幼い斎王の横顔、多くの人が伊勢神宮を目指し賑わった伊勢街道、守り続けられてきた幻の宮。
たくさんのエネルギーが交錯してきたこの町の歴史を思わずにはいられない。
発掘調査は現在も進んでおり、先日も飛鳥時代の門跡らしき遺構が見つかったばかり。
幻の宮の謎が解き明かされる日も、そう遠くないのかもしれない。
静かでおだやかな、このささやかな町の壮大な歴史のお話。
ぜひ一度足を運んで、悠久の魅力を感じてみてほしい。
photo / y_imura
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斎宮歴史博物館
三重県多気郡明和町竹川503
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Twitter @mie_saikuhaku
いつきのみや歴史体験館
三重県多気郡明和町斎宮3046-25
tel 0596-52-3890
hp http://www.itukinomiya.jp/
入館料無料
竹神社
三重県多気郡明和町斎宮2757‐2
tel 0596-52-0055
明和町観光協会
※斎宮ガイドボランティアの予約を受け付けています
三重県多気郡明和町斎宮2811
tel 0596-52-0055
hp http://meiwa.sub.jp/meisho/guide/guide.html
8歳、6歳、4歳の3児の母です。ライターをしています。