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国際指名手配と的矢湾のアジト “3分間の都市伝説”

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朝ドラ「まんぷく」

NHKの朝ドラにハマったのは初めてのことだ。テレビの前で、45年ほど前にカップヌードルがヒットした事件を思い出していた。「あさま山荘事件」記憶はこの辺りから始まる。この話はカップヌードルにお湯を入れ、記事を読み終わった後丁度いい具合だと思う。

 

 

高度成長期

それは昭和の学生運動が盛んだった頃、私の実家は鳥羽で宿を始めた。営業を初めて3年目の事だ。当時、高度成長期が始まろうとしている時代、宿を経営するのも素人であった漁師育ちの親、その頃泊まりにくるお客様の名前を聞くことも、たいした挨拶もせずに宿泊して頂いていたと言う。

そんな時期、警察が張り込み続け、犯人逮捕の大捕り物がこの宿であったのだ。当時の過激派のグループだったと聞かされた記憶がある。

米寿に干支ひとつ進んだ親に自分の記憶を確かめに行く事にした。

 

 

 

戦後の開拓団

話を聞くと、的矢湾に面する鳥羽市畔蛸町を千賀・堅子町方面に進む、そこは民家もなく荒れ果てた雑木林。「鳥羽カントリークラブ」と書かれた朽ちた看板がある。今ではソーラーパネルが敷き詰められ、立ち入り禁止エリアとされている。

まさにこの写真の向こうにクラブハウスと書かれた跡地が見えた。父親の話では、この場所に昭和46年ころ左派運動家達がアジトを作っていたと言う。活動家はアジトを建てるために相差町の宿に泊まり、作業に出かけた。その宿が「はまなみ」だ。そのグループは大学生に見え、資金が足りなくなると大学生はどこかに電話をかけた、すると直接現金が宿に郵送されてきた。「お金持ちの息子に見えた」と証言する。

ぼんやりと残る私の記憶では、宿に彼らが滞在していた頃、彼らの布団の中に入れてもらい一緒に寝、三角屋根のアジトに連れて行ってもらった事を断片的に覚えているのだ。どうやらこの鳥羽での逮捕の後、事件は昭和47年のあさま山荘へと変わって行ったようだ。

当時の日本は、木製の電信柱をコンクリート製へと変更作業がされていた。使わなくなった電柱を学生たちは建築資材にし、ログハウスを建てていたと話す。とてもリアルで現実味のある父親の証言だ。自分の記憶でも建屋の中にはロフトがあり、数人の人がいた覚えがある。その電柱の面影をカントリークラブハウス跡地で見つけた。やはり本当の話なんだと自分なりに合点した。

 

戦後の日本では深刻な食糧難のため、政府が「緊急開拓事業実施要領」を決定し、農地を増やす政策をしたらしい。それは全国に斜度15度以内で50ha、つまり東京ドーム規模のまとまった土地が確保できるところに資金を貸し付けた。それによって的矢湾付近でも戦後の開拓団が展開されていったと言う。

またその土地は機械的に選定された。その結果、土壌条件の劣悪なところも多かったと聞く。まさにこの地もそうだったようで、農地として成功はしていない。

どうやら赤土ため、何度かの失敗があり農地でなく家畜が放牧された。そして社会の流れに翻弄されるように、バブル期は綺麗な芝生を敷き詰め、その上をゴルファーが歩いた。またサファリパーク建設の噂も聞いた事もある。そして現在ではソーラーパネルが敷き詰められているのだ。

 

 

 

証拠は?

父親の証言とぼんやりとした自分の記憶は果たして正しいのだろうか。確かな確証が欲しいと町内会の会長に会いに行った。

鳥羽カントリークラブ跡地に昔左派のアジトがあった話をすると「初耳です!それは興味深い!自分も知りたい!」「当時学生で町内に住んでいなかったので、はまなみの宿の大捕物の話も記憶にない」と言う。それならと派出所のドアを叩いた。

昭和46年の事件の事を知りたいと聞く。すると「その話は初めて聞きます!もし日本赤軍の話なら、是非とも情報がほしいのです。」と返された。今でも壁には国際指名手配としてポスターが貼り出されていた。

「今取材している記事を私も読んでみたいので取材頑張ってください。」と警官に励まされた。それならともう一軒聞き込みにいく。

 

 

長岡警察駐在所の近くに中辰商店があるが、その店主が快く話してくれた。町内会長と同じようにその当時は学生で、関東の大学にいたと話し、学生運動真っ只中だったと言う。興味ある話が聞き出せれるのではと期待が膨らむ。

「当時の学生運動は政府の方針全てに拒否反応をし、とにかく反対運動をした。」自分はその運動を抑制する側、つまり反対側のアルバイトで成田闘争現場で左派勢力に対応していたと話す。また当時の友達から大手メディアで過激派の事件が扱われるなどすると、今でもメッセージが届くんだと話してくれた。

店主に「学生運動とはいったい何だった」と彼に質問すると、「ほんと何だったのだろう。」と答えが返ってきた。

 

 

 

Coffee Timeにしよう。

 

昭和の時代、熱くなった学生たちの多くは現代社会に馴染み、日本の高度成長期を支えた。彼らは戦後に生まれ、昭和を若者として過ごし、平成超える。新しい時代は果たして、どこに流れて行くのだろう。また自分と関わった赤軍らしきメンバーとの記憶はいったい。謎だ。

 

Cafes千 -SEN-でテイクアウトの珈琲を注文した。取材の帰り道に考える事にする。

 

 

 

朝ドラを見て思った事

 

カップヌードルはファーストフードだろうか。ドラマで見たように、戦後の日本は食糧難の緊急性があった。だからカップヌードルの発明に繋がったと理解した。とするなら、カップヌードルはファーストフードと言えるかもしれない。

深掘りすると、まさにその時代の血糖値を上げるため、開拓団のような国策も必要だったと考える事ができる。

私たちが生きた平成は戦後からの川の流れ、それも渦巻きのように現在に繋がってきた。もしこうした時代が川の流れのようだとするなら、またそれを人生の新陳代謝と比喩するなら。若い時は流れが早く、年齢がますと緩やかに流れる。この事を動的平衡の原理と言うらしい。

 

続けると年齢を感じる事も同じで、自分の時間速度が、回転する周りの流れについていけなくなり、そうした過程で脳は錯覚するらしい。そのため神経細胞が加工強化され、螺旋の渦のようにパターン化する事で、記憶として焼き付けられるそうだ。

 

今の時代も生きる流れであり、螺旋の渦に乗っていると考えてみる。今の社会を例えれば、緩やかなスローフードだとする。そうであるなら緊急に血糖値をあげない食べ物を食している事になる。そう考えると学生運動に励んだ戦後世代は、血糖値が高い社会であった。そう言えるかもしれない。

 

 

人は食べたものが自分になっている

 

結論として、的矢湾周辺でなされた戦後からの姿は、いったい何を食べてきたのか。私はじっくり腰を下ろして考える必要を感じた。そして現在の社会は今、何を食しているのだろうかと、洞察の目で見る必要を私たちに問いかけている様に聞こえた。

平成から令和の時代に代わり、スローフードがこれからの社会に溢れるなら、人は無意識に次の飢餓に備え、社会は緩やかに太って行く。だから朝ドラ「まんぷく」は、人の深いふところに響くように、平成最後の社会に受け入れられたのだろう。また時がくれば、オトナ達はカップヌードルが必要とされる事を知っているのだ。

 


 

現在相差町の宿はまなみは、

JR鳥羽駅から徒歩3分の場所で営業している。

アミノ酸がタンパク質に変換され、生きる養分を常に取り入れる必要がある。その為にはこうした食堂で食するといい。

海女小屋鳥羽はまなみ

 

おまけの動画

国際指名手配と的矢湾のアジト”3分間の都市伝説編”

 

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