三重県南牟婁郡御浜町。
車を走らせれば、程なくお隣の和歌山県に到着する
人口約8,700人のこの小さな町のキャッチコピーは「年中みかんのとれるまち」。
町の特産品の柑橘畑が広がる、長閑で温暖な土地だ。
その御浜町に、昨年、誕生したのが、ひつじみかん牧場。
遠くに海を眺められる丘の上の小さな牧場の噂は、口コミで広がり、
週末は羊を見にきた若い親子で賑わっている。
何故、御浜町にひつじの牧場かと、疑問に思う読者も多いと思う。筆者も然り。
なので、梅雨の晴れ間のとある日、御浜町にあるひつじみかん牧場を訪ねてみた。
『羊飼いになりたかったんです。』
ひつじみかん牧場の北見桂吾さん、悠加さんご夫婦
大学を卒業後、一旦は企業に就職したものの、学生時代にTVで見た羊飼いの職業に惹かれ、
羊飼いになることを決意したという。
仕事を辞め、人口よりも羊の数の方が多いというニュージーランドに渡り、
羊飼いになる為の修行をしたと語る北見桂吾さんは、
とても穏やかな雰囲気の若い牧場主さんだ。
日本に戻ってきてからも、岩手県の農場で羊を飼う為の修行を重ね、
その中で悠加さんと出会い、6年働いたのち、
5年前に17頭の羊をトラックに乗せて御浜町にやってきた。
―オープンまで4年は準備にかかっていますね。大変だったのでは。
『はい、みかん畑を開拓して牧草地づくりからの、全てゼロからのスタートなので失敗もしました。御浜町の土地は、みかんには良いのですが、牧草はなかなか育たなくて…。』
と、苦労話にも、笑顔で淡々と語る桂吾さん。
―ところで、何故、御浜町だったのでしょうか。
『この畑は、母方の祖父の土地なのです。高齢で手が回らなくなってきて放置されるみかん畑も多くなってきて、牧場の話が出たので…それで。』
今も牧場の仕事の傍ら、祖父母のみかん畑を手伝っていると言い、
牧場では、その畑で採れたみかんで作られたアイスやジュースも販売している。
―みかん畑と牧場の両方ですか。それは大変ですね。
『でも、自分は羊飼いなので。(みかんは、)本職のスゴイ人たちが周りに大勢いらっしゃるので。まだ勉強中ですよ。』と、桂吾さんはここでも控えめに語る。
『ニュージーランドの暮らし方が好きで。
向こうでは何でも自分たちで作るでしょ。』
牧場では、訪れたお客さんがくつろげる様に、
みかんアイスやみかんジュース、コーヒー等のカフェメニューを用意している。
可愛らしいワゴンの中で調理するのは、悠加さん。
ワゴン横の看板には、他にも、悠加さん手作りのシェパーズパイや、
パンやスープのひつじみかん牧場らしい、飲食メニューも並ぶ。
見渡せば、この小さな牧場のそこかしこに、
ご夫婦がこれまで時間をかけて、丁寧に作ってきたであろう痕跡があった。
青々とした牧草地が丘の下の方まで続き、
敷地の周りに置かれた鉢植えにはハーブや花が植えられている。
案内の看板も、牧場の柵も、注意書きの表示でさえ、その一つ一つが手の込んだ手作りのものだ。
牧場主お二人の、ほのぼのとした優しい雰囲気が、そのまま牧場の雰囲気となっている。
―以前に来た時よりも、牧場がさらに良い感じになっていますね。
『ありがとうございます。ニュージーランドの時の暮らしを参考に。彼らの様に何でも自分たちで作る社会が良いですね。』
『羊の居る生活が好きなんです。』
ひと通りのお話を伺ったあと、最後に、ひつじみかん牧場のこれからを尋ねてみた。
―今後、牧場がこうなって欲しい等の、将来の夢や目標はありますか。
それまでも、筆者が投げかける質問に丁寧に話をしてくれた桂吾さん。
じっと考えた後に答えてくれた言葉は、筆者にはとても新鮮に聞こえた。
『集客とかとかでなく…、ただ、毎日羊たちが快適に暮らせる環境をつくっていきたいですね』と。
夢とか目標とかを考えた時、
例えば「もっと数字を上げたい」とか「もっと記録を伸ばしたい」とか、
今と比較して“もっと”何かを得ようとすることが、一般的に多い気がする。
学校教育の影響からか、人と競争し、より良い進学、より良い就職、より良い暮らし等、
今よりも“もっと”を、向上心として目標だと捉えがちだ。
ですが、桂吾さんからの言葉には、微塵も、その貪欲さが感じられなかった。
『羊の居る生活が好きなのです。この頃は牧場を応援してくれる人たちも居て、感謝です。』
逆に、「もっと牧場をこうしたい」と言った一般的な回答を期待していた筆者は、
自分が恥ずかしくなった。“もっと”を考える時は、今を満足に捉えていないことなのかもしれない。
淡々と、粛々と、日々の生活を繰り返し丁寧に暮らすことで、
自ずと生まれる日常の平和。
それが、羊飼いとして目指す生き方なのかもしれない。
桂吾さんの言葉には、筆者が期待していた陳腐な夢や目標よりも、
ずっと深い生き方の本質がある様な気がした。「日日是好日」という禅の言葉が、思い浮かんだ。
ずっと牧草を食む羊を見なから、『幸せそうだな…。』と思わず呟いた筆者に、
『ええ、うちの牧場の羊たちは、幸せだと思いますよ。』と、桂吾さんが答え、
『そうだね。』と側で悠加さんも微笑む。
『のんびりしていってくださいね。』
インタビューを終了し、牧場を見おろすベンチに座る。
隣の親子の女の子が、お母さんに話しかけている。
「あのね、さっき、自分で手を洗ったの。ウサギさんが付いていたよ。○○ちゃんでも開けやすかったの。」羊にエサをやった後に手洗いをする場所があり、蛇口の取っ手がウサギになっていた。小さな子どもが洗いやすい高さに配慮した洗面所。
あんな小さな子でも、ご夫妻の愛情に気づくことが出来るのだ。
この日のひつじみかん牧場は、海からの風が心地良く吹き抜けていた。
もし、羊に生まれかわるとしたら、ここの羊に生まれたいと筆者は思った。
≫幸せな羊をみたくなったら、ぜひ、御浜町へ
ひつじみかん牧場
住所:〒519-5202三重県南牟婁郡御浜町大字志原889
入場料:無料、 定休日:水曜日、 雨の日、 駐車場:有
自然が大好きな会社員。ビルが建ち並ぶ大都市から転勤で伊勢に来て早5年。猿が、鹿が、狸が、イタチが、大手を振って道を横切る三重県南部の田舎を、営業車で回る日々を満喫しています。営業の傍らで見つけた三重の田舎の魅力を発信したいなぁ。得意ジャンル:自然、秘境、アウトドア。