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「水を求めて」連載エッセイ【ハロー三重県】第28回

三重県にやってきてから、子どもが産まれるまでの2年間。
私が足しげく通っていた場所がある。

スーパーへ買い物に行ったはずがついつい足が向いてしまう。そんな魅力的な場所。今でもちょっと心や体が疲れると、ああ、あそこへ行きたい、と心がむずむずしてしまう。あそこへさえ行けば、すべてすっきりさっぱりと生まれ変わったみたいな気持ちになれるのに、と。
特に新緑の季節はうっかりするとアクセルを踏めばハンドルをそちらへきってしまいそうになる。
柔らかな草の匂いと足の裏に響くような水音が恋しくなる。

*

松阪市嬉野。ああ、文字を見るだけで心がふわっと潤うような心地。

私は、嬉野が大好きだ。

嬉野をずっとずっと山に向かって車を走らせると、永遠に続くみたいな緑と緑にいつも心が躍ってしまう。
そして、水。正確には川なのだけど、嬉野に関してはなぜか私はいつも、「水!!!!」と全身で思う。
嬉野の山を登る道すがら、たびたび川に遭遇する。窓を少し開けていれば、ざぶざぶと水音がにぎやかだ。
ここには水がうんと豊富にあふれているんだな、という事実にいつも無性に感動する。どこまで山を登っても、登っても、澄んだ水がたんとあって、ここにいたらなんでもできるじゃないか、という少し大げさな気持ちになる。
水ってもしかすると心を強くするんだろうか。

川のそばの集落を見つけては、つい車を停めて、もしもここで暮らしたら、と考えてしまう。そしてやはり、なんでもできるな、と思うのだった。

例えば、なにかの事情で水道が止まってもこんなにきれいなお水があればお腹がたぷんたぷんになるまでお水が飲めるし、とても暑い夏の日に「暑いなあ」と思ったそばから水浴びができる。
そのお水が、ずっとずっと上のほうから、延々と流れてきているという希望にいつも満たされてしまう。

*

山を登っても登っても、どこまで登っても川があって、嬉野にはまるで毛細血管みたいに隅の隅までお水が流れているのかもしれない。
運転があまり得意ではないくせに、お水を追いかけて、細く曲がりくねった山道をつい上へ上へと走ってしまう。そして、どこまで登ってもふわっと現れる人家を見てはまた心が躍る。ああここで、たくさんのお水と一緒に暮らしを営んでいる人たちがいるのだな、と思うと夢みたいな気持ちになる。誰かの日常をそんなふうに言うのはもしかすると下世話なのかもしれないのだけど、たくさんのお水を浴びたり飲んだりできるところで暮らすというのを想像すると、どうしても胸の奥に幸せな気持ちがあふれてくる。

産まれてこのかた、蛇口を捻って、お金を払ってでしか水と暮らしたことがない身としては、やはりそれはどうしたって希望的でどこか夢見心地。

*

あるとき、嬉野の入り口で、この道はどこまで続くのか、そして、このお水はいったいどこからやってきたのか知りたくなった。運転が不得手なくせに思い切った大冒険に繰り出した。
途中、携帯電波がなくなって、途中、ぎょっとするほど道が細くなって、なにかあったらどうしましょうという気持ちに何度もなったのだけど、好奇心が勝ってしまった。今思うと若葉マークの分際でよくもまあ、と思う。
走っても走っても、道はあって、いよいよここで行き止まりかしら、と思ってもやはり道はあって、もちろん川もあって、そして、やはり誰かしらが暮らしている様子があって、そのたび胸の奥が熱くなった。
どこかしらの隣県につながるのかと思われた山道は、ついに行き止まりに到達した。ナビには松阪市嬉野上小川町と表示されてあった。
嬉野はとても広いのらしい。
上小川はとても小さな集落で、いくらかの人家と、小さな神社と、小さな墓地があった。小さなお寺もあったような気がする。そして、私がずっと追いかけた川の始まりが確かにあった。小さな小さな立て札に「源流」と書かれてあった。その日、私は生まれて初めて川の始まりを見た。
家を出てから2時間以上が経っていた。
私は運転が下手だし、土地勘もないので、もしかするともう二度とここには来られないかもしれない、と思ったので、上小川でたくさん川や木の写真を撮って、川の水を気のすむまで触って、帰った。

*

あれから10年が経って、私は今もずっと嬉野に焦がれている。
あのざぶざぶ流れる水をいつだって見たい。
子育てに追われていると私の一存でできないことが増えていき、行きたい場所もなかなかかなわない。自由に使える時間のなんと少ないこと。
遠距離恋愛をいうのをやったことがないけれど、遠距離恋愛ってもしかするとこんなかしら、と思う。
届かない間にも枯れそうにない気持ちがあって、届かない間にも思いはつのる。

そんなふうに何年も、最後に見たたくさんの水を思いながら暮らしていた。
ほんとうに何年も。
いつかもっと素敵な景色をたくさん見たら、嬉野へのたぎる気持ちもしゅうと跡形もなくなくなるのかもしれない。そう思っていた。
思っていたんだけど、けっきょく私はどれだけ嬉野に届かなくても、ずっとやっぱり嬉野に焦がれ続けていたんだった。

*

さて、2000文字も使って壮大な前書きをしてしまった。
私は今年、いよいよ嬉野の、しかも上小川へまた行くことができたのだ。
しかもお泊りだった。「ここで暮らしたら」と夢想した時間をほんのひと時手に入れた。
前書きだけでうんと長くなってしまったので、ことの顛末はまた次回に持ち越すことに。とにかく最高を煮詰めた飴があったらきっとこんなふだろう、と思うような幸福な時間だったということだけ書いておく。

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