ホーム 02【遊びに行く】 「釣れた魚と、いつか釣るタコ」連載エッセイ【ハロー三重県】第27回

「釣れた魚と、いつか釣るタコ」連載エッセイ【ハロー三重県】第27回

ついに釣れた。

去年の10月頃、釣りに行きたいと長男(当時6歳)が言い出して、心を整えてようやく重い腰を上げたのが今年の2月。
真冬は釣れないという前情報がひとつもない中、「釣れないねぇ」と時間を持て余し、空っぽのクーラーボックスを片手に帰宅した。
ライフジャケットまで買ったのに。

*

春になれば釣れる、という言葉を頼りに春を待った。

いよいよ5月。心を整えているうちに春が終わりかけ、早い梅雨が忍び寄っていた。危ない危ない、と慌てて釣り竿を引っ提げて、いざ。

今回行ったのは、コウカンと呼ばれる場所。

前回、真冬の釣りで鈴鹿市の白子海岸へ行った際、となりにいた釣り客の方に北上して来た旨をお話したら、動くなら南へ動かないと、と言われたのだった。
三重県に関しては南へ行くほど魚が豊かになるらしく、釣りをするなら南へ行け、ということらしかった。
住まいを伝えると、

「やったらコウカンがあるやん。コウカンはよう釣れるぞ」

と、釣り客。

「コウカンだって」

と夫に伝えると、夫は「ああ、日本鋼管か。吉田君(仮名)もそういえば言うとった」と職場の釣りが好きな同僚の名前をあげた。

ならば春の釣りは日本鋼管へ、と決めていたのだった。

*

前回、季節のせいもあったとはいえ、ほんとうになんにも釣れなくて、ちょっぴりやるせない帰路だったのだ。
いくら春になって、釣れるよと言われたって、万が一ということがある。やるせない帰り道をうっかり再放送するのは嫌だ。張り切った私たちは、今回はサビキというのに挑戦した。
サビキというのは、細かい海老がぎゅっと離乳食みたいにまとまった餌を釣り糸の先に付けた小さいかごに入れて釣るという方法。
海の中でふわーっと広がった小さな海老たちにお魚たちが寄ってきて、釣れるという仕組み。
これが非常によく釣れる、と夫が吉田君から教わってきたのだ。

サビキ用の餌を小さなかごに入れるのは釣り針に餌をつけるよりうんと容易く、小さな子どもでも簡単にできる。サビキは洗濯用洗剤の詰め替えのようなパッケージにおさまっていて、パッケージを逆さにしてぎゅっと握ればよいのだ。非常にストレスフリー。

えいと釣り糸を垂らして、待つこと少し、さっそく釣れた。
2匹もくっついていた。
前回のすっからかんを経験しているので、この時点で満足度は500点くらい。もう、思い残すことはないよ、という気持ち。
けれど、餌はまだまだあるのだから釣りは続く。
餌を入れては垂らし、釣れたり釣れなかったりを延々と繰り返し、釣れる喜びにいちいち歓声をあげて、そのうちゆっくりと日が暮れた。

水を張ったスチロール箱を覗くと全部で15匹ほど。これが多いのか少ないのか分からないけれど、前回がすっからかんだったので、我々としては紛れもない大漁そのものだった。

帰ろうか、という段になって、どこからかやってきた釣り客の方が「釣れましたか」と声をかけてくれた。
とても誇らしい気持ちで、スチロール箱の蓋を開けて中を見せると、ああ、これは小アジで、これは小サバね、と教えてくれた。
どうやって食べましょう、と訊ねると「唐揚げにしたらいいよ」とのことだった。

*

帰宅して、張り切ってお魚を料理しようと試みるんだけど、我が家には猫が一匹いて、この猫が、ものすごい剣幕で魚を欲しがった。
日頃からお魚調理の際には周囲をうろうろしているんだけど、この日は特にすごかった。もしかして鮮度を感知できるんだろうか。
分けてあげられたらよかったんだけど、あいにく早々に下味をつけてしまった。申し訳ない。
子どもたちに猫の相手をしてもらっているうちにどうにか、下ごしらえが完了。あとは揚げるだけ。

小さなお魚たちばかりだったので、三枚におろすなんて到底無理で、少し大きめの小アジの頭とお腹は取ったものの、中骨や小骨はもちろんそのままだ。大人たちは当然それで問題ない。
だけれど、子どもたちは食べるかしら、とずっと訝っていた。
魚を出せばすぐに「骨が」と言い出すのが常だから、いくら自分たちで釣ったお魚だからって、結局大人ふたりで平らげました、となるのかもしれない、と思った。
ほんの15匹程度だから、それもそれなんだけど。でもせっかく釣ったんだから、お腹に入ってこそじゃない?と思ったりもするわけで。

*

釣り客に教わった通り、唐揚げにした。
粉をまぶして、からっと揚げて、気が急く子どもたちが騒がしいので揚げ物バットのまま食卓へ。
さっきまで釣り針の先にぶら下がって跳ねていたお魚たちが、お料理になった。芳ばしくていい香り。
子どもたちが歓声とともに飛びついて、いきおいよく魚にかぶりついた。
ほ、ほ、骨がありますからね、とハラハラしたのは私だけで、ほとんど興奮状状態みたいな子どもたちはきゃあきゃあと噛んで、そして飲んだ。嚥下した。
取り合うみたいにあっという間に15匹のお魚たちはなくなって、私のお口に入ったのは長女が取り置いてくれてあった1匹だけだった。

実を言うと、私は釣りに行って帰っただけでそこそこ疲れ果てていて、帰宅後、猫をいなしながら魚をさばくという緊張感ですべての力を使い果たしてしまい、肝心のお魚を食べる意欲がまったくのゼロだったのだ。

それを心やさしい長女が「ママも1匹だけでいいから食べな?」と言って残して置いてくれて、それをどうにか口へ押し込んだ。

その1匹のお魚が、目も覚めるようなおいしさだった。

これが鮮度か、と開眼した。長女よありがとう。

新鮮なお魚は当然おいしいくて、子どもたちも小骨がどうとか小言ひとつ言わなかった。もっと食べたいと騒がしいほどだった。

これはあれだ、食育。自分たちで釣ったお魚をおいしく食べて、お魚のおいしさに開眼するという流れ。食育の本に書いてありそうなほど鮮やかな展開に感動した。もう二度と食育に関するありがたい文言を見ても、「そんなうまい話あるか」と思ったりしないと心に決めた。

*

すっかり我々は気をよくして、早くまた釣りに行きたいとそわそわしている。なのに、この長梅雨でどうしてなかなか叶わない。
吉田君にまたまたあれこれ教わってきた夫は「そのうちタコも釣れる」と気が大きくなっている。子どもたちもすっかり真に受けて「タコ釣りたいね!」と張り切っている。

タコは処理が大変そうなのでできればリリース願いたいところだけど、また釣りには行きたいと思っている。

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