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「異端児と呼ばれて」美しすぎる若き伊勢型紙彫刻職人とは

 

「職人界隈では、異端児と呼ばれています」
愛嬌のあるえくぼを覗かせながら、そう茶目っ気たっぷりに話す彼女。
取材当日は雪がちらついていて、 白いコートに身を包みカフェで温かい紅茶を飲んでいる目の前の彼女は、どこにでもいそうないわゆる「今どきの若者」。

さて、ところで皆さんは伊勢型紙をご存知だろうか?
ーー伊勢型紙。
友禅、ゆかたなどの柄や着物の生地を染めるのに用いるもので、長い歴史を誇る三重の伝統的工芸品だ。
和紙を加工した紙に彫刻刀で、図柄を丹念に彫り抜く。昭和58年には伝統的工芸品の指定も受けた。

 

伊勢型紙の模様例(出典:伊勢型紙協同組合)

 

 

 

 

 

 

習得には高度な技術と根気や忍耐が必要で、職人自体の数も近年では減ってきており高齢化が問題視されている。
40代50代でも若手と呼ばれるそんな業界で、伊勢型紙彫刻師として活躍しているのは、なんと20代の女性だという。
”美しすぎる女性伊勢型紙彫刻師”
若くして伝承者としての道を歩む彼女の等身大の姿に迫った。

今回の記事の主役は、どこにでもいそうな「今どきの若者」
古くから続く伝統工芸品7代目伝承者として、そして若者としての彼女とは。

 


 

■ 美しすぎる女性彫刻師。そのルーツ。 

 

 

 

 

幼少期の里奈さん。伊勢型紙に触れたのはこの頃だった。

「初めて型紙を彫ったのは、幼稚園の時だったかな」

懐かしむようにそう話すのは大杉里奈さん、26歳。
里奈さんは幼少期、おてんばで男勝りな女の子だったという。
体育の授業が大好きで、男子とケンカすることもしばしば。
放課後には塾へ行くかたわら、日によっては友達と遊びに興じた。
昨日見たテレビの話をしたり、クラスメイトの女の子とおしゃべりするのも大好きだった。
ただ、彼女には他の子たちと違う部分があった。
彼女の生活には常に「伊勢型紙」があった。1991年、彼女は祖父に伊勢型紙彫刻師をもつ家庭で生まれた。
父は昔、彫刻職人を志した時期もあったが、バブルがはじけ衰退していく日本経済の中で
家庭を支えるため伊勢型紙とは関係のない別の仕事を選んだ。
一方、祖父は伊勢型紙彫刻職人として毎日型紙を彫っていた。
守るべき伝統工芸。伊勢型紙彫刻を継承した5代目としてのプライドが祖父にはあった。

「彫刻職人では食っていけやん時代や」

そう言いながらも祖父毎晩毎晩、時には徹夜で型紙を彫っていた。
そんな家庭の中で、おじいちゃんっ子でもあった彼女は物心ついた頃、幼稚園児の頃にはもう伊勢型紙を彫り始めていたという。
職人である祖父の指導のもと、連日伊勢型紙を彫った。
当時の彼女にとってはそれが祖父とのコミュニケーションであり、祖父との「あそび」だった。
夏休みにあった工作の宿題も、伊勢型紙を彫って提出した。
月日は流れ、彼女は17歳となる。
他の学生と同じように青春を謳歌し、性格や好みなどは幼少期と比べ随分変わってしまった。
それでも伊勢型紙を彫ることだけは変わらなかった。
成長しても祖父との時間はなにより楽しく、出来上がった作品を満足げに見つめる祖父の顔が、なにより好きだった。

そんな祖父が倒れ、ガンだと判明した。
人生において「転機」とは良い知らせを告げるものとは限らない。
医師によれば、このままいくと余命は半年だという。
病に伏した祖父を目の当たりにした17歳の時の彼女。
彼女の「転機」はその時だった。「職人じゃ食っていけない」伝統を背負う覚悟が、運命を変えた。
「伊勢型紙職人を継ぎたい」
高校生の彼女は両親に打ち明けた。
自分の大好きだった祖父が守り続けてきた伝統。
その文化を絶やしたくない。祖父のように次の世代へ伝えていきたい。
彼女の真っすぐな想いだった。
打ち明けるまでには葛藤もあった。このまま大学へ進んで卒業し、普通にOLになる…そんな安定した未来も当然描くことができた。
「もう職人で食っていける時代じゃない」
そんな事実は百も承知、小さい頃から聞かされていたことだった。
当時高校生、若さゆえの勢いもあったが、彼女の瞳は本気だった。
彼女の決意に、両親は背中を押した。
職人になること、その辛さも大変さも、祖父の隣で一番見ていたのは彼女自身だろうと認めていたからだ。
「止めはしない。けど大変だよ」
そう念押しだけして、彼女の決意を受け入れた。
自分や次の世代の将来を考え調べた結果、同志社大学にて伝統文化継承者特別入試があることがわかった。
伝統文化を保存伝承することも重要な役割として、伝統文化継承者を対象にした特別選抜入学試験。まさに彼女にとってうってつけの試験方法だ。
それからの彼女は、勉強に打ち込みつつ職人になるため修行の毎日だった。
猛勉強の結果、彼女はついに合格することになる。
余命半年と言われていた祖父の体調もすこぶる回復し、再び彼女に稽古をつけられるまでになった。
まるで神様がそれまでの努力を報いてくれたかのように、状況は好転していった。

 


 

■ 「50年100年続く文化にするために」
  彼女が挑んだ伝統文化の新しいカタチ 

 

 

 

大学へ進学し江戸時代の日本文学や伝統芸能に関する研究に取り組みながらも、彼女は祖父に型紙彫刻を学びつつ「伊勢型紙彫刻の新たな表現方法」を模索していた。
本来、伊勢型紙は着物の図柄を染める為に文様を彫り抜いた型紙のことであり、
その彫り抜きパターンは数多く存在する。
ひとつの図柄でひとつの彫り抜きパターンというのが通例で、モノクロ調で同じパターンが規則的に並ぶそのデザインが美しいとされていた。
そんな中で祖父は伊勢型紙と絵の技術を合わせることで、新分野となる「彫型画」というジャンルを開拓した。
その影響を受け彼女は「様々な色やパターンを混在させた作品があっても面白いのではないか」とアイデアを閃く。
型紙の模様を彫るには時間がかかり、更に異なる色とパターンを用いるとなると膨大な時間を要する。
採算度外視とも言えるアイデア、今までになかったことをクリエイトすることへの不安は大きかったが、案を聞いた祖父から否定的な言葉は無かった。
クリエイティブなアイデアで今まで挑戦してきたのは、他ならぬ祖父自身だったからだ。
祖父の後押しもあって、従来の「桜」や「イチョウ」などのデザインの他に、イラストを得意としていた彼女はオリジナルのデザインも制作した。
彼女のクリエイティブな手法を「邪道だ」と評する者もいたが、
今までのやり方に捉われない彼女の自由な発想は、展覧会やコンクールなどで上位賞を何度も総ナメにするという結果を見せた。

里奈さんが昨年発表した作品。 異なる模様を複数使用しており、見る角度によって色味が異なるのも特徴。

 

 

あくまで着物の染色のためでしかなかった伊勢型紙を「ひとつのアート」として世の中に発信した彼女の功績は、職人たちの間に間違いなく新しい風を吹かせたのだ。

 

 

 

 


 

■ 「伝えるには知ってもらうこと」
      次の世代へ繋ぐために今できること 

 

 

 

 

お世話になっている先生へ送った作品。
顔の輪郭や皺、影の濃淡すべて伊勢型紙彫刻でデザインされている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在彼女は学校にて非常勤講師として勤務するかたわら、伊勢型紙彫刻職人として活動している。
作品制作だけではなく、伊勢型紙について広く伝えるため広報活動や講演会などの開催と忙しい日々だ。
趣味として伊勢型紙を始めたいという人に向けて、伊勢型紙教室の開校も計画中だと言う。
祖父がもし職人じゃなければ、自身がもし伊勢型紙へ興味を抱かなければ…。
そういった「もしも」を経験しているからこそ文化が簡単に途切れる脆さも理解している。
だからこそ、伊勢型紙という文化を次の世代へ伝えていくために「知ってもらう」ということがなにより大切だと里奈さんは語る。
着物の模様を染める型紙がある。それを作る職人がいる。その型紙の模様を彫る職人がいる。
身の回りのもの全てには何らかの人の手が加えられていて、全体を知り深堀りしていくことで見える伝統や課題がある。
次の世代、例えば自分の子供が伊勢型紙職人を継ぎたいと言った時、
「大変だよ」と言わなくてもいい時代にしたいと、真剣な眼差しで最後に里奈さんは語ってくれた。

 

 

祖父とともに制作活動に励む里奈さん

 

 

 

 

 

伝統工芸品を巡り祖父から孫へと伝えられたひとつのドラマ。
業界の異端児と呼ばれた彼女の活躍は、まだまだ続きそうだ。

 

written by サバト(@sabachaaan)

 

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